鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房のこと 明け方見た夢のこと

 今日は、やわらかな晴れのいち日だった。

 春っぽい気温と湿度。

わたしがこのブログを書きはじめたのは、昨年の8月。それ以降、いち日も休まずにこのブログを書いてきた(こんなに長くつづくとは思わなかったな…)。

 わたしは、ブログの記事を前もって書きためておくことをしない。その日のお昼すぎから、その日に書きたいことを書くようにしている。そのようにしつつも、前日の夜にベッドのなかで、明日ブログに書くことをなんとなくきめてから眠りにつくことがおおい(そうしないとなんだか安心して眠れない… 明日そのことを書くとはかぎらないけれど、それは書きたいことが思いつかなかった場合の保険になる)。

 昨日の夜はベッドのなかで、明日は「創作のための安部公房」をブログに書いてみようかなと考えていた。「創作のための~」は、村上春樹について何回か書いていたので、それと比べてみるのも面白いかもしれない、とも思った。安部公房の著作から、いくつかの言葉を思い出しながら眠りについた。

 安部公房のことについて、あれこれ考えるのはひさしぶりのことだった。そのためかもしれない、明け方、安部公房の小説に関係した夢を見た。その夢をここに書いてもよいのだけれど、そのまま書いても、分かりにくい内容だという気がする(夢そのものは、単純な夢なのだけれど…)。

 安部公房は晩年、デレク・ビッカートンの「クレオール」(人間における言語の問題)に夢中になっていた。わたしが見た夢は、その「クレオール」に関係した夢だった(と思う)。これは、文化人類学分析哲学などともクロスした内容になっている。この話をはじめると、とても長くなるし、いまのわたしにそのことを語りきる能力はない(でもいつかは語ってみたい)。

 安部公房の作品は、どれも独創的な魅力にあふれている。それをあれこれ分析的な視点で読むことは、いくらか野暮なことかなあとも思う。「(小説を読むうえで)最終的に意味(要約された大意)に到達するというのは、ちょっと間違いだと思う」と安部公房は語っている(「方舟は発進せず」より)。

 だからぼくは文学作品というのは、極端にいえば、われわれが生きている小さいなりの世界を作って、それを提供するということです。そういう作業ですから「お説教」や「論ずる」ということは、小説においてそれほど必要ないと思いますね。(……)
 小説というのは、それ以前の、意味に到達しないある意味を提供するということ。そこで読者は体験する。そういうものではないかと思う。

 ふむふむ、よく分かりました。

 それでも、とわたしは思う。好きな小説を繰り返し読めば、そこにはおのずと「わたしにとっての小説の意味」が生まれてくる(そうでしょ?)。はじめはうまく言葉にならなかったなにかが、やがてひとつの言葉になる瞬間が訪れる。小説を読んで、ああ、面白かったと思う以上のなにかを、そのときわたしは知ることになる。

 わたしはそんな瞬間が好きだったりする。そうすることによって、ひとつの物語を巡る旅が、ようやく終えられたような気分になる(そして物語を巡るあらたな旅がはじまる…)。

 ……あれ? 夢の話からはじめて、お話がなにやらあらぬ方向に…… (わたしの思考はいつもこんなもの)

 とりあえず適当な分量の文章を書いたので、今日はこのくらいにしておこう(頭も疲れたことだし…)。

 つぎに書くときは、「創作のための安部公房」をきちんと書いてみよう。では、ごきげんよう。

 

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