文学メモ カフカと安部公房 断章
今日のお天気は晴れ。
う~ん、やっぱり暑い。
この頃は、ブログの更新をあまりしてないなあと思う(8月になってこれが2回目…)。書きたいことがなくなったわけではないのだけれど、ブログの記事を書くことがなんとなく億劫に思えてしまう…… (これは夏の暑さのせい?)
いまはノートをとりながらのゆっくりとした読書の時間が、いちばん楽しい。7/18の日記に書いたフランツ・カフカ『城』(池内紀訳)は半分くらいまで読みすすめた(わたしらしいスローペースの読書…)。
そこに描かれている情景を思い浮かべつつ詳細に読み込んでゆくと、わたしがいままで知っていた『城』とはずいぶん違う世界が見えてきてなんだか驚いている(でも、その驚きを言葉にすることはむつかしい…)。
安部公房はカフカについて「カフカはつねに僕をつまずきから救ってくれる水先案内人です」と語っている。わたしはこの言葉が、むかしから気になっていた。安部公房に(小説を書く上で)どのような「つまずき」があったのだろう…… その「つまずき」はカフカの存在(作品)によって、どのように回避されたのだろう……
インタビュー「破滅と再生2」から引用しよう(「破滅と再生2」は『死に急ぐ鯨たち』に収録されています)。
このところ僕は、ますますカフカが好きになりだした。あれほどきれいさっぱり儀式的混濁を濾過してしまった作家もめずらしいんじゃないか。その辺を批評の基準に採用すると、フォークナーなんて、ひどく微妙な位置づけになってくるな。儀式の渦の中に一緒になって巻き込まれながら、しかもその向こうにある個別化の原理をつかんで離さない。その点ヘミングウェイとは違うね。ヘミングウェイにはいつも、最後は儀式のカードで勝負をつけようとする怪しげな手さばきが感じられるだろ。
「儀式化の要素を完全に排除して、なおかつ成り立つとしたら、やはり散文の世界じゃないかな」と安部公房は語る。
わたしは散文について、まだおおくを語れない。文章を書くことはむつかしく、いつも手探りしながら書きすすめている。やがてわたしにも、文章についての明確ななにかが見えてくるだろうか。