鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

秋の読書 「荘子 第一冊 内篇」

 今日のお天気は薄曇り。

 庭に咲いた金木犀の花がよい香りを放っている。

 10/9(日曜日)、馴染みの本屋さんに注文していた本が届いたとのことなので、電車でひと駅となりの街へお出かけした。取り寄せてもらったのは『荘子 第一冊 内篇』(金谷治訳・岩波文庫)。この秋は、日頃読まない種類の本を読んでみようかなあということで、荘子の本を選んでみた。

 荘子は、その世界を緻密に読み込めば限りなく奥が深いのだろうけれど、いまは全体の雰囲気をつかむ感覚で、あっさりと読みすすめていてる。本の構成は原文、読み下し文、解説、現代語訳となっていて、それぞれを行きつ戻りつしつつ読む作業はなかなか楽しい。

 「内篇」は第一から第七まであって、ひと晩にひと項目のペースで読んでいる(第二「斉物論篇」まで読みすすめた)。短い言葉のなかに、スケールの大きな空想(?)や意外に分かりやすい人生の教訓(?)などが混沌と渦を巻いて、その遠心力にこころが拡散されてゆく感覚はなかなか心地よい。

(以前読んだことのある老子とくらべると、荘子の方がわたしの好みかもしれない… いかにも中国風な「喩え」の表現が素敵…)

 金谷治による冒頭の解説を読むと「荘子の哲学は因循主義で一貫している」とあり、因循というのは因(よ)り循(したが)うということで「自己を放ち棄てて絶対的なものに心身をまかせきるのである。死んで生きかえるという、宗教的な解脱の境地がここにはある」と語られている(ここでの「絶対的なもの」とは、一般的な「神」の概念ではなくて「万物の存在をつらぬく理法」ということらしい…)。

 う~ん、そうなんだ……

 そのように説明されれば、そうかなあとは思うけれど、そのあたりのところは実感としていまひとつ感じ取れていない…… わたしの読書は、荘子の広大な庭をおぼつかない足どりで歩く子供のようなもかもしれないなあと思う。庭を繰り返し散策しているうち(その言葉を繰り返し読むうち)に、それまで見えてこなかった何か(庭の全景のようなもの?)が見えてくるのだろうか。

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