鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

文学メモ 「密会」シリーズ あらたな展開

 今日のお天気は雨。

 寒さもゆるんできて、気温はいくぶんあたたか(でも、こちらは風邪をひいてしまった… 軽い頭痛…)

 『密会』シリーズについてのメモ書き(その1)。

ひとつの区画を完全に知りつくすように

 安部公房『方舟さくら丸』に、主人公の「ぼく」が、立体視用の専用眼鏡を使い、航空写真の上を旅することに夢中になる場面がある。

 そのうち病みつきになってしまう。中毒症状。三十分ごとに濡れタオルで目を冷し、二種類の目薬を交互にさし、一日平均五時間は地図の上をさまよって歩くのだ。

 (……)

 その気になれば瞬時に海を越え、島から大陸へ、大陸からまたべつの島へと飛んでまわることだって不可能ではない。しかしぼくは欲張らず、一つの地区を完全に知りつくすまで、気長に見物してまわるのが好きである。

 「ぼく」の語りではあるけれど、安部公房もまた、手書きの地図を小説に組み込んだり(『燃えつきた地図』)、地図(航空写真)を小説にたとえて、そのあるべき姿について語ったりしている(詳細はこちら)。

 安部公房の時代は航空写真だった。いまはネットの環境があれば誰でもグーグルアースで世界中を旅行してまわれる(安部公房にグーグルアースを見せてあげたかったな…)。

 グーグルアースで観光地めぐりをするのもよいけれど、わたしは都市の細部をゆっくりと、こころゆくまで眺めるのが好み。なにげない街の情景のなかに人々の暮らしをかいま見た気がして、ふと不思議な感銘に打たれることもある。

 話が横道にそれてきた…… 「ぼく」は「一つの地区を完全に知りつくすまで、気長に見物してまわるのが好きである」と語る。わたしもどちらかというと、そのようなタイプかもしれない。

 読書も、お気に入りの作家の作品を丁寧に繰り返し読む傾向にある(すぐれた作品を一度の読書で終えてしまってはもったいない…)。繰り返し読めば、それまで見えていなかったものの姿がちらりとこころをかすめることもある(読書ではそのような感覚を大切にしたい)。

 でもそれは明確な言葉にはならない。その先をもう少し見てみたいと思う。好奇心といいますか、探求心といいますか…… 書くこと(語るように書くこと)は、そのようなぼんやりとした姿(感覚的なものにすぎない姿)をくっきりとした形として(明確な言葉として)、わたしに見せてくれる(教えてくれる)。

 よく見えなかったもの(よく分からなかったもの)が、はっきり見えてくるのは、やはりわくわくすることだと思う。

あらたな展開

 安部公房『密会』シリーズをはじめたとき、そのオチのところ(最後のところ)は見えていた(《11》以降は、そちらにむかって書いてゆく予定)。でも、《1》から《9》の記事を書く過程で、オチにしようと思っていた事柄のむこうに、またべつの情景が透けて見えてきた(安部公房の作品は奥が深い…)。

 見えてくれば語らないわけにはゆかないけれど…… それを語るためには安部公房の初期の作品のいくつかについて語る必要があることに気がついた。『密会』シリーズを終えた後は、そちらを語ってゆこうか……

 安部公房の初期(1947~1951くらいまで)の作品について語ることはむつかしい。ひとつひとつの作品について、順に語ってゆけばよいというものでもないし…… あの時期の安部公房は詩と哲学に寄り添っていた青年から、作家安部公房へと変容(変貌)してゆこうとするエネルギーにあふれている。それを語ることなく、個別の作品を分析的に語っただけでは意味がない…… (気がする)

 安部公房の出発点には詩(リルケ)と哲学(実存主義)がある。むかし読んでいた哲学関係の本(初心者向けの本です)を再読中(ヤスパースを読まないと駄目?)。個別の作品については詳細に読み込むことで、つい最近、いくつかの貴重な結論を得ることができた(こういうのはちょっとうれしい…)。

 じりじりと作業はすすんでいますが…… すべてのピースがそろい、それらが組み合わされるまでには、まだおおくの過程と時間が必要かもしれない。また、それをブログの記事として書けるかというと(その語りの様式から)、ちょっとむつかしいという気もしている。

 先のことばかり考えても仕方ない、イメージと直感を大切にして、出来るところからこつこつとやってゆこう。

 

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