鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房作品シリーズ休止について

 こちらのブログは(ほぼ)休止中ですが、いくらか思うところがあるので少し書いてみよう。

 わたしは2010年6月から2013年6月にかけて、安部公房関連の記事をおおく書いてきた。安部公房の作品を語ることは、わたしにとって充実したわくわくする時間だった。でも2013年に入った頃から、それがあまり楽しくなくなってきた。そして、2013年6月のちょっとした出来事をきっかけにして、安部公房の作品について語ることをやめてしまった(ブログの方も7月にほぼ休止した)。

 わたしには、神経質なところがある。不快に思う出来事があると、それに関係したことに嫌悪を感じて楽しくなくなってしまう。安部公房の作品について語ることは仕事ではないのだから、いやな気分のなかでやろうとは思わない。無理にやっていると、ますます人間嫌いになってしまう。

 わたしの安部公房作品シリーズは、検索からのアクセスもほどほどにあり、これまでけっこうたくさんの方に読んで頂いた。記事を公開しているのだから、いろいろな方に読んで頂けるのは、もちろんうれしい。ネットでの記事の評価もよいみたいだったので、それもうれしかった。

 でも、いろいろな方に読まれるうちに、わたしの記事の一部、ちょっとした内容や考察、結論などを都合よく抜きとって(おいしいところをつまんで)、自分の文章のなかにちゃっかり組み込んでいるのを、ときおり目にするようになった。その方にすれば参考にしたという程度なのかもしれない。まあ、些細なことなのだろう。でも、わたしはこういうのが気になる。ひとの心理のいやなところが透けて見えてくる。

 わたしは「文章が読める」ので、そういう微妙なところが分かる。わずか数文字が、そのひとの言葉か、そうではないのかを感じとれる(文章全体から論理的に説明できる)。わたしの語り口は軽い。あっさり書いているようでも、その背後に深い洞察があるものもある。けっして単純な思考の結果ではない。

 わたしの記事から「おいしいところ」をつまむひとは、そのようなことが分からない。記事に分かりやすく書いてあることを「簡単なこと」と思い違いをして、そのようなことは「自分も分かっていましたよ」というスタンスで、(あきらかに奇妙な)自説を展開されていたりする。

 「自分で考えたもの」の背後には、あれこれと考えを巡らすための「思考の基礎」がある。そのような「基礎」があって、はじめてひとつの結論から次の結論へと適切に展開してゆくことができる。「おいしいところ」をつまむひとは、そのようなことを知らないのだろう。おいしそうに見える言葉だけをつまんで、そこから先を適切に展開出来るわけがない。

 たまたまわたしと同じような考えに出会うこともある。その場合は、ああ、この方はわたしと同じ考えなんだと思って、わたしはうれしく感じる。でも、これ、わたしの記事からつまんだでしょ、というような記事に出会うこといやな気持ちになる。そこから先に「あきらかにおかしなこと」が書いてあれば、ますますまいやになる。なんかね、いやなんだよね、そういうの。

 言葉を大切にして、自分で考え、自分の言葉で語るのがいいよね。でも、そうじゃないひとたちもおおいからね。そういうひとたちは結局文学になにを求めているのだろう? 文学は自分をよく見せるためのアイテム? 自分を表現すること(自己表現)は素敵だと思うよ、でもそれが無節操な自己顕示欲になると醜いよ。それを、そうと思わずやっていたりするから人間はむつかしい(わたしも気をつけよう…)。

 わたしはこころしずかに毎日を平穏に楽しくすごしたい。わたしの語る言葉が巷の埃で自由でなくなるとしたら、わたしはもっと自由な場所を探して旅をしよう、それがいい。

 

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