鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

荘子 「人間世篇」 巨木と職人

 今日のお天気は薄曇り。

 気温は11月とは思えないあたたかさ。

 荘子のお話の2回目(前回はこちら)。

 『荘子 第一冊 内篇』の「人間世(じんかんせい)篇」では、大きな木のお話が語られている。このお話は、石(せき)という大工の棟梁が弟子と共に旅をしていて、斉の国で櫟社(れきしゃ)のご神木である櫟(くぬぎ)の巨木を見るところからはじまる。

 そのご神木というのがとにかく大きい。それは数千頭の牛をおおいかくすほどに巨大で、幹の太さは百かかえもあり、高さは山を見おろすほどだという(すごい!)。

 でも、棟梁はなぜかそのご神木にほとんど関心を示さない。弟子たちがそのことをいぶかしく思って理由を訊ねてみると、あれは役立たずの木だと棟梁は答える。「その木で船をつくると沈むし、棺桶をつくると腐るし、道具をつくると壊れてしまう。つまり、使いようがないから、あんなに大きくなったのだ」

 棟梁が旅を終えて家に帰ると櫟社の神木が夢にあらわれた。ご神木は「お前はこのわたしを何に比べているのかね」と棟梁に語りかける(ご神木のお言葉は金谷治の訳でどうぞ…)。

 木の実や草の実の類は、その実が熟するとむしり取られもぎ取られて、大きな枝は折られ小さい枝はひきちぎられることになる。これは、人の役にたつとりえがあることによって、かえって自分の生涯を苦しめているものだ。だから、その自然の寿命を全うしないで途中で若死にすることにもなるわけで、自分から世俗に打ちのめされているものなのだ。

 長いあいだ役にたたないものになろうと願ってきて、ようやくそれが叶えられたいま、そのことはおおいに役だつことになっているという。

 棟梁はご神木の夢を弟子たちに話して聞かせた。すると弟子のひとりが「無用でありたいと願いながら、どうして神社のご神木になったのでしょう」と訊ねた。

 その問いに棟梁は、あの木は世間がうるさいので神木の形を借りているだけだと答える。「あの木が大切にしていることは世間一般とは違っている。それなのに、きまった道理でそれを論ずるのは、いかにも見当はずれだね」

 なんといいますか、わたし好みのお話……

 このお話は一般に「無用の用」として知られている。そちらについては、これまでたくさん語られてきたと思うので、ここではそれとは少しちがう視点からこのお話について語ってみたい。

 このお話は大工の棟梁を主人公にして語られている。大工の棟梁は木についての豊富な知識を持っているので、木の有用の側面を語らせるには最適な配役ということになる。これが一般の人、木についての知識を持たない人だとお話として成り立たなくなる。さすがは荘子、お話の設定の仕方が上手いですね。

 木についての深い知識を持つ棟梁は、たとえそれがご神木であっても、まずは材木のよしあしを論じる。これは大工として、なかなかの職人気質だともいえる。

 そんな棟梁がご神木の夢を見る。その夢によって棟梁は、その木が持っているもうひとつの側面を知ることになる。木についての深い(有用な)知識があればこそ「あの木が大切にしていることは世間一般とは違っている」ということを鮮やかに語ることが可能になる。

 そのような、遠く隔たったふたつのイメージ(有用と無用)を巡るいきいきとした精神の運動が、わたしにとっての荘子の面白さかなあという気がしている。

 

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