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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

荘子 「胡蝶の夢」 精妙な隠喩

荘子

 今日のお天気は小雨のち曇り。

 昨日から降りつづいていた雨は、どうやらあがったみたい。

 先日(10/11)の記事に荘子のことを少し書いたので、そのつづきをいくらか語ってみよう。

 『荘子 第一冊 内篇』の「斉物論篇」では、有名な「胡蝶の夢」のお話が出てくる。わたしのイメージで簡単にまとめてみると、

 蝶になった夢を見ているときは、楽しく飛びまわり自分が蝶の夢を見ているとは思いもしない。夢から覚めてはじめて、自分が蝶になった夢を見ていたことに気がつくのだけれど、ふと思いを巡らせば、このいまが蝶の見ている夢なのかもしれない……

 みたいなお話かな。

 この詩の最後のところは「周與胡蝶 則必有分矣 此之謂物化」となっていて、金谷治の訳では「荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(ぶっか)と名づけるのだ」となっている。

 「物化」(万物の変化)とは「因果の関係は成立せず、荘周と胡蝶との間には一応の分別相違はあっても絶対的な変化というべきものはない」ということで「荘周が胡蝶であり、胡蝶が荘周だという境地がここで強調されている」という。

 なるほど……

 そういえば、わたしの好きなボルヘスが「胡蝶の夢」について語っていたことを思い出した(えっと、どこだったかな? ボルヘスの本を繰ってみた…)。

 『詩という仕事について』(岩波文庫)で、ボルヘスは「胡蝶の夢」を「この隠喩はあらゆる隠喩のなかで、もっとも精妙なものだと私は思います」「ほとんど奇跡に近い幸運により、詩人はあの昆虫(蝶)を選んでいるからです」と語っている。少し引用してみよう。

 もし「荘子は虎になった夢を見た」と言ったら、何の意味もないでしょう。蝶には繊細で、はかない印象がつきまといます。仮にわれわれが夢であるとすれば、それを示唆するまともな方法は、虎ではなくて蝶を使うことでしょう。もし荘子タイピストになった夢を見たとしたら、まったくナンセンスでしょう。鯨ではどうか。これもやはり的外れです。言いたいことにぴったりした言葉を荘子は選んだのだと、私は思います。

 「胡蝶の夢」が夢と現実(万物の変化)について語られたお話だとすると、それが「蝶」ではなく「虎」であっても(理屈の上では)同じように成り立つことになる。しかし、ボルヘスが指摘するように、それでは詩としての魅力を大きく損なってしまう。蝶であればこそ、それは夢とわかちがたく結びつき、詩としての輝きを放つことが出来る(虎には虎にふさわしいイメージと物語がある…)。

 荘子の世界は、いくつものイメージが互いに関係しあい、絡みあってかたちづくられている。そのイメージを構成する細部の「ほとんど奇跡に近い幸運」こそが、荘子の言葉の魅力であり重みなのかもれしない。

 

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