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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

村上春樹 「ノルウェイの森」《序》 誰がその森について語るのだろう

村上春樹

 今日のお天気は薄曇り。

 風がつよい。

 この頃の文学カテゴリーは安部公房関連の記事ばかりなので、たまには村上春樹関連の記事でも……

 1987年に書き下ろし作品として発表された長編小説『ノルウェイの森』は、わたしにとって(そしてたぶん村上春樹にとっても)いくらか特別の意味を持つ作品になっている。

 いつか、『ノルウェイの森』を中心にした村上春樹の長編小説についての長い文章を書いてみたい。いますぐに書きはじめることは無理だけれど、そのための準備は少しずつすすめてゆきたい。

1 物語の構造

 『ノルウェイの森』は村上春樹の長編小説で唯一その結末が物語の冒頭で提示(暗示)されている。この物語は、なぜそのようにはじめられなければならなかったのだろう。そこを入口に書きはじめてみたい。

 なぜ、村上春樹は直子の運命を物語のなかに託すことをしなかったのだろう? 直子はなぜそのはじめから死(自殺)を授けられていたのか?

 誰が(何が)直子を殺したのか?

2 意識下での出来事

 『ノルウェイの森』は人の心理として、いくらか奇妙に思われる箇所がいくつかある。直子は「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在したことを覚えていて」と「僕」に語る。これは真実なのだろうか? (小説にそのように書かれているのだから、それはたしかに真実であるはずなのだけれど…)

 数年前、わたしは20代半ばの統合失調症の女性(大学院生)の方とメールのやりとりをさせていただいたことがある(彼女の書く文章は、わたしが知るさまざまな文章のなかで、もっともすばらしいと思えるもののひとつだった…)。

 彼女は森田童子の歌が好きだとわたしに教えてくれた。彼女からのメールを繰り返し読みながら、彼女にとっての森田童子の声とメロディはこころ休まる擬死なのかもしれないと思った。そんな彼女のお気に入りの歌のひとつ「たとえばぼくが死んだら」から引用しよう。

たとえば ぼくが死んだら
そっと忘れてほしい
淋しい時は ぼくの好きな
菜の花畑で泣いてくれ

 直子は本当に「私のことをいつまでも忘れないで。わたしが存在していたことを覚えていて」と語ったのだろうか? わたしには、この歌詞で語られた言葉が人としての真実であるように思えてならない(そのことは『ノルウェイの森』の物語にとって、このわたし自身にとって、なにを意味するのだろう…)。

3 遠くから響いてくるもの

 わたしは『ノルウェイの森』をふたつ所有している。ひとつは、その帯までも同色で装幀された赤(上巻)と緑(下巻)の初版本、もうひとつは『村上春樹全作品1979-1989』のもの。初版本の『ノルウェイの森』は一度だけ読んだ。それ以降は『村上春樹全作品1979-1989』のものを読んでいる。

 一度目を読み終えたときから、わたしは上巻の赤一色の装幀に手を触れるのが、なんだか怖い。そこに手を触れていると、そこから溢れた赤い血で、わたしの手までもが赤く染まってしまいそうな気がする。下巻の暗い緑は、深い森のなかの孤独な死をわたしに連想させる。

 村上春樹は『ノルウェイの森』について「自作を語る 100パーセント・リアリズムへの挑戦」で次のように語っている。

 この話は基本的にカジュアルティーズ(うまい訳語を持たない。戦闘員の減損とでも言うのか)についての話なのだ。それは僕のまわりで死んでいった、あるいは失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話であり、あるいは僕自身の中で死んで失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話である。

 フィンセント・ファン・ゴッホは「僕は赤と緑とで、人間の情念を表現したい」と語ったという……

 いつか『ノルウェイの森』を中心にした村上春樹の長編小説についての長い文章を書いてみたい(わたしに語れるだろうか? でもいつか語ってみたい…)。

 

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