鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

村上春樹 小説の技術《2》 託す

 今日はとってもよい天気。

 気温はあたたか。

 でも、わたしは昨日の夜から、なんだか調子がよくない。

 ここはひとつ「村上春樹 小説の技術《2》」を書いて、本来の調子を取り戻そう(1回目はこちら)。創造的な場所に触れることは大切。それは、わたしのこころに不思議な力づよさを与えてくれる。

 村上春樹は小説や文章について、様々なところで思いのほかたくさん語っている。今回は先日読み終えた『海辺のカフカ』つながりで、『少年カフカ』から引用してみよう。

 『少年カフカ』は、少年漫画誌を思わせる装丁が素敵(これは村上春樹ご本人のアイデアだそうです…)。この本には、ネット上で『海辺のカフカ』の読者から寄せられた質問や感想のメールと、それに答えた村上春樹の文章とが、どどっと載っている。村上春樹が返事を書いたメールの総数はなんと1220通(凄い!)。

 Reply to 803 から。

 原則的なことを言いますと、小説というのは、説明するものじゃないんですね。台詞にせよ、地の文章にせよ、言葉でいろいろなことを説明してはいけない。言いたいことはそのまま言葉にはせず、何か別のものに託してしまう――これが小説の本来のあり方です。

 そうそう、とここを読みながらとても納得してしまう。愛という言葉を使わずに愛を語るのが小説、ちがう?

 でも、いまの世の中の雰囲気はそうじゃないって気がしている。みんな、分かりやすい言葉を求めている。納得できる説明を求めている。安心できる答えを求めている。そんな気がする。どうして?

 この文章には、もう少しつづきがある。

 託されたものというのは、ただすっと読んでいただけでは見えないときがあります。森の奥にひそんでいるまぎらわしい色の獣を探すときみたいに、じっと目を凝らさないと見えてこないことがあります。

 言葉は最後にやって来る。わたしはそんな感覚を持っている。はじめはまだ言葉にならない何かがそこにある。わたしはその何かを頭の片隅において、日々をすごしている。あるときは、その何かをつぶさに見つめ、あるときはその何かと空想のなかで戯れる。上手く眠れない夜に、その何かと添い寝することもある。

 するとある日、その何かについて語るための言葉が、わたしに訪れる。わたしはその瞬間を素敵に思う。それは、これといって特別な言葉ではないけれど(ありきたりな言葉ではあるけれど)、そのようにして得られた言葉はわたしにとって、なにものにもかえがたい大切な言葉になる。

 わたしはそのようにして物語(小説)や言葉との関係をつづけてきた。これは、いまの世の中の気分には、あっていない言葉との関係なのかもしれない。でも、それがわたしなのだから、仕方のないところもある。わたし以外の誰かが、わたしの人生を生きることは出来ない。わたしが、わたしの人生を生きている。

 今日はこんなところです、チャオ。

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