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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

村上春樹「海辺のカフカ」《1》 それぞれの百年

 今日のお天気は晴れ。

 寒さはほどほど。

 村上春樹海辺のカフカ』について語ってみよう。

目次

  1.  それぞれの百年(このページ)
  2.  コーヒーにお砂糖を入れますか?
  3.  河合隼雄 元型
  4.  源氏物語と生き霊
  5.  夏目漱石をめぐって

村上春樹の百年

 わたしのなかで百年といえば、ガルシア=マルケス百年の孤独』が最初に思い浮かぶけれど、村上春樹の小説やエッセイにも、いろいろと百年がでてくる。『海辺のカフカ』では、第7章に百年をみつけることが出来る。いくらか引用してみよう(他の文章との比較のために、いつもより長めに引用しますね)。

 (……)駅の前にある昨日と同じうどん屋に入り、温かいうどんを食べる。時間をかけて食べながら、窓の外を眺める。駅の構内をとてもたくさんの人々が行き来している。みんな思い思いの服を着て、荷物を抱え、せわしなく歩き回り、おそらくはそれぞれの目的を持って、どこかに向かってる。僕はそんな人々の姿をじっと見ている。そして今から百年後のことをふと考える。
 今から百年後には、ここにいる人々はおそらくみんな(僕をふくめて)地上から消えて、塵か灰になってしまっているはずだ。そう考えると不思議な気持ちになる。そこにあるすべてのものごとがはかない幻みたいに見えてくる。風に吹かれて今にも飛び散ってしまいそうに見える。

 この文章を読むと、田村カフカくん、きみ、本当に15歳って思ってしまう(そうでもない?)。彼は将来、詩人になるべきと思うのはわたしだけだろうか? (カフカくんのお父さんは著名な芸術家ということだし…)

 村上春樹の作品でいちばんはじめに百年がでてくるのはこちら、『風の歌を聴け』〈35〉から引用しよう。

 彼女はグラスの氷を指先でくるくると回しながら白いテーブル・クロスをじっと眺めていた。
 「ねえ、わたしが死んで百年もたてば、誰も私の存在なんか覚えていないわね」
 「だろうね」と僕は言った。

 この軽い感じも、なかなか素敵(でもね、この彼女がすでに自殺していて、この世にいないことを思うとちょっと切なくもあるよ…)。

 村上春樹の書く百年で、わたしがいちばん好きなのはこちら、紀行集『遠い太鼓』から「午前三時五十分の小さな死」を引用しよう。

 ピアツァ・カブールに面したカフェに座ってエスプレッソを飲み、まわりの風景を眺めながら、僕はふと不思議な気持ちになる。僕はこう思う。今ここを歩いている人々は、百年後にはもう誰一人として存在してはいないのだ、と。前を歩いて通り過ぎてゆく若い女も、バスに乗ろうとしている小学生も、映画館の看板をじっと見ている若者も、そしてこの僕も、おそらくみんな百年後にはただの塵になってしまっているのだ。百年後にも今と同じ光がこの町を照らし、今と同じ風がこの舗道を渡っていることだろう。でもここにいる誰ひとりとして、もはやこの地表には存在していないのだ。

 この文章と『海辺のカフカ』にでてくる文章を読み比べてみると、とてもよく似ていることが分かる(場所が違うだけで、その内容はほぼ同じ…)。たしかに同じようなことを語ってはいますが、わたしの好みでいえば「高松市のうどん屋」より「ローマのカフェ」かな、やっぱり。カフカくんには申し訳ないけれど……

 この文章には「一九八七年三月十八日の水曜日」と日付が入れられている。このとき村上春樹は、ローマ郊外の〈ヴィラ・トレコリ〉で『ノルウェイの森』の第二稿を書いていた。『海辺のカフカ』が出版されたのが2002年なので、その間に約15年の歳月が流れたことになる。そのことを思うとき、作家の持っているイマジネーションのねばりづよさ、その持続性にわたしは驚く。

 『海辺のカフカ』から引用した先ほどの文章は、小説のなかで読めば、さらりと読めてしまう文章かもしれない。でもそれは村上春樹という作家の、どこかしらこころの深いところから立ち現れてきたリアリティのある言葉なのだと思う。村上春樹の小説には、そのような言葉たちが夜空に瞬く星々のようにちりばめられている。

エミリー・ディキンソンの百年 わたしたちの百年

 わたしが敬愛してやまないエミリー・ディキンソン Emily Dickinson (アメリカの詩人1830-1886)の詩にも百年がでてくる。こちらも紹介しておこう。ディキンソンの詩は本当に素敵(訳は野田寿)。

百年の後には
その場所を知る人もいない
そこで演じられた苦悩も
平和のように 静かである

雑草が わがもの顔にはびこり
行きずりの人が
いまは亡き死者の墓碑銘を
なぞり 読もうとする

夏の野原を吹く風が
その道を思い出すだろう
記憶が落とした鍵を
本能が拾うだろう

 いい詩でしょ。

 最後に『ノルウェイの森』のあとがきから、少し引用しよう。

 この小説は(……)『夜はやさし』と『グレート・ギャッビイ』が僕にとって個人的な小説であるというのと同じ意味合いで、個人的な小説である。たぶんそれはある種のセンティメントの問題であろう。僕という人間が好まれたり好まれなかったりするように、この小説もやはり好まれたり好まれなかったりするだろうと思う。僕としてはこの作品が僕という人間の質を凌駕して存続することを希望するだけである。

 このあとがき(文庫本には未収録)を読むと、『ノルウェイの森』を書き上げたときの興奮のようなものが伝わってくる。

 ディキンソンの詩は、彼女の死から百年あまりが経ったいまもおおくの人たちに読まれている。村上春樹の小説はどうだろう。いまから百年の後に村上春樹の小説を読んでいる人たちのことを、わたしは想像してみる…… そのとき人々は『海辺のカフカ』や『ノルウェイの森』の物語になにを見つけるだろう。

 

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