村上春樹 「風の歌を聴け」《8》
今日のお天気は晴れ。
明るい青空。
村上春樹『風の歌を聴け』《7》からのつづき(1回目はこちら)。
伝達について 文章という不完全な容器
『風の歌を聴け』〈7〉は、小さい頃にとても無口だった「僕」のお話。
小さい頃、僕はひどく無口な少年だった。両親は心配して、僕を知り合いの精神科医の家に連れていった。
〈7〉は、どことなくゆるい雰囲気。「僕」が子供だからかな?
文明とは伝達である、と彼[精神科医]は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。もし君のお腹が空いていたとするね。君は「お腹が空いています」と一言しゃべればいい。僕は君にクッキーをあげる。(……)君はしゃべりたくない。しかしお腹は空いた。そこで君は言葉を使わずにそれを表現したい。ジェスチュア・ゲームだ。やってごらん。
僕はお腹を押さえて苦しそうな顔をした。医者は笑った。それじゃあ消化不良だ。※ [ ]は、わたしの補足です。
ははは、とわたしも笑った…… そういうときはね、指をくわえて、物欲しそうな顔で相手の顔を上目づかいに見るといいよ。
「文明とは伝達である」なるほどと思う。けれど、違和感も感じてしまう。この精神科医はそれまで子供の「僕」に平易で分かりやすい言葉を使っていたのに、ここのところだけ「文明」「伝達」ってむつかしい言葉を使っている(これって子供に使う言葉じゃない気がする)。
それから「伝達」っていうのは「文明」以前の事柄だって気もする。ミツバチの世界にも「伝達」はあるものね。よくは分からないけれど、70年代って「文明」って言葉がいまよりずっと注目されていたのかな?
ここで、ちょっとした遊び。この「文明」って言葉を「小説」って言葉に置き換えてみよう。
「文明とは伝達である」→「小説とは(文章、言葉による)伝達である」「表現し、伝達すべきことが失くなった時、小説は終わる パチン……OFF」
どうかな、面白くない? 『ノルウェイの森』からの引用。
文章という不完全な容器に盛ることが出来るのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。
「文章という不完全な容器」これでは「伝達」するにも、ちょっと心許ないな。つまり……
「完璧な伝達(コミュニケーション)などといったものは存在しない。完璧な恋愛が存在しないようにね」こちらは、『風の歌を聴け』の冒頭に書いてある文章の言い換え(もとの文章はこちら)。
わたしは、この「不完全」って言葉が好き。どうして好きかってことは上手く言えないけれど、「小説」もそうだし、このわたしたちの「人生」だってそうだと思う。
村上春樹は、いまも小説を書きつづけている。これは素敵なこと。わたしは、いまも彼の小説を読みつづけている。これは幸いなこと。不完全ながらも、この世界ではいつも何かが起きている。よいことも、よくないことも。わたしはこの世界のことが好き……
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