河合隼雄 「こころの声を聴く」 お暇ですか?
今日のお天気は、雨のち曇り。
雨の上がったあとの空気の匂いが好き。
昨夜、そろそろ『海辺のカフカ』に出てくる夏目漱石と、村上春樹と河合隼雄の対談『河合隼雄対話集 こころの声を聴く』で語られている夏目漱石とについて書かこうかなと思って、それとなく調べていたら、なにやら頭が疲れてしまった……
(夏目漱石と近代の自我について考えはじめるときりがない)
だからというわけでもないけれど、その本にあった白洲正子との対談を面白く感じたので、そこから少し引用してみよう。
ふたりの対談がおこなわれたのは1991年、話題の中心は青山二郎。
河合 先生[白洲正子]は青山[二郎]さんというのが百万人に一人の暇人だと言っている。(……)これが今いない。
白洲 できないのでしょうか、やっぱり。
河合 どこかの企業なりパトロンが、百万人に一人の暇人に金を払えばできるんです。つまり芸術というのは何もしない人に金を払っていないとだめなんです。何もせん人に金を払っているうちに何かする人が時々現れるんです。それが今は、何かする人にしか金を払わない。(……)計算を越えたところに金を使うべきなんです。むかしの貴族たちはそうしていましたよね。
※ [ ]は、わたしの補足です。
「百万人に一人の暇人」って表現が素敵…… 芸術について「計算を越えたところに~」は、お金にかぎらずそうだと思う。つづきをみてみよう。
河合 (……)本物だけを厚遇しようとすると、本物は出てこなくなるんです。何もしないというのは、なくてはならない存在なのです。つまり青山二郎がいるから小林秀雄が出てくるんです。
なかなか奥深いお話。世界はいっけん無関係のように見える、さまざまな奥深い関係性によって成り立っている(ちがう?)。だとしたら、分かりやすい関係ばかりを見ていても上手くいかない(とも思う)。
この話題のまとめはというと……
河合 ただここでむずかしいのは、本当に何もしないで金を貰うというのは素晴らしいことなんだけど、金を貰うと卑屈になったりする。堂々と何もしない、これです。
なにやら一般社会の常識とは、スケールというか、ラベルのちがうお話になっておりますが…… ここを読むと、河合隼雄はやっぱりすごいなあと感心してしまうわたしがいる。
さて、ここで話題にあがった「暇」と村上春樹とを結びつけてみようか(そうすることで、この記事のカテゴリーを「村上春樹」にしよう)。『村上春樹ブック』(文学界 1991年4月臨時増刊号)から、『風の歌を聴け』の執筆にまつわるエピソード(談話)をご紹介。
『風の歌を聴け』が出たのは一九七九年ですが、書いたのは前年の七八年です。
店(ジャズをかける酒場兼喫茶店)をやってると、忙しくてね、そんなこと[小説を書くこと]考えている暇がないんです。借金を返すのに精一杯だったから。
でも、その年[1978年]はどうしようもないくらい店が暇になっちゃって、店をやっていると一回はそういう落ちこみの時期があるんです。暇だからってバイトの首を切るわけにもいかないし、で、時間だけはたっぷりできたんです。ちょうど三十も目前だったし、何かやらなくちゃな、とも思って。
で、四月に書き始めて夏くらいに書いちゃったんです。※ [ ]は、わたしの補足です。
なるほど、その「暇」があったから『風の歌を聴け』が誕生したというわけですね(村上春樹って、もうお店とかやらないのかな? 彼がプロデュースするお店とかあったら行ってみたいな…)。
このわたしも暇といえば、暇なのだけれど…… と思いつつ、この記事を終えよう。