読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「デンドロカカリヤ」《6》 裏返った顔の世界

安部公房

 安部公房『デンドロカカリヤ』《5》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 植物に変形したコモン君の世界はどのようになっているのだろう。

わたしたちの世界

 雑誌『表現』版では、顔が裏返り植物に変形すると「内と外がひっくりかえる」と説明されている。まずは「内」と「外」が入れ違いになるまえの世界(通常の世界)を確認しておこう。

外―実在の世界、内―こころの世界

 (6)外―実在の世界、内―こころの世界の図。

 おおよそ、こんなふうになるだろうか。顔を境界にして「外」はわたしたちの意識から独立して存在している実在の世界(外界)、「内」はこころのなかの世界(内界)という区分ですね。

 これはデカルト的二元論、物質と精神、ふたつの実体が顔(身体)を境界にして接している世界(世界のモデル)というふうに見ることも出来ると思う。また身体がその境界に置かれているというのは、メルロ=ポンティの「両義性の哲学」を連想させるものがある(わたしの哲学は気分のレベルなので参考ということで…)。

「あのぼく」(非存在)についての補足

 「あのぼく」「このぼく」については《4》で語った。図6で「あのぼく」が「外」になっているのは分かりにくいだろうか。「あのぼく」は意識によってイメージされたものだから「内」じゃないの? と思われる方もいらっしゃるかもしれない(まあたしかにそうだけれど…)。これは、こんなふうに考えてみてはどうだろう。

 顔の役割を考えるときにチーズケーキを例にして、「外―顔―内」の関係をみてきた。これはチーズケーキを「あのぼく」に置きかえても、同じように考えることが出来る(と思う)。「このぼく」がチーズケーキを食べたときのことを回想する場合を考えてみよう。

 このぼく――チーズケーキを食べている過去を回想しているいまの自分。
 あのぼく――チーズケーキを食べている過去の自分。

 となって、そのときの顔が「満足の表情」だとしたら、チーズケーキを食べている過去の自分が、顔の凹凸(満足の表情)を通過することで存在の意味として、いまの自分の意識に固定されたことになる。

 これは過去の自分でなくてもよい。未来の自分を思い描いても同じだし、抽象的な自分、つまり自己愛の対象として自分や自己嫌悪の対象としての自分を設定してもその関係はかわらない。

 (「このぼく」と「あのぼく」の関係は《5》で語った「意識の断層と身体のイメージ」ともかさなるところがあるように思う。図5をひと工夫することで、その関係を描くことも可能かもしれない)

植物に変形したコモン君の世界はこんなふう

 それでは、顔が裏返り「内」と「外」が入れ違いになった世界について見てゆこう。初出の雑誌『表現』版、新潮文庫書肆ユリイカ版では、植物に変形したときのコモン君の世界がそれぞれ次のように語られいる。

1 「あのぼくとこのぼくとが入れちがいになって」「意識が逆に顔の指向性を辿って原存在に還元されて行った話」(雑誌『表現』版)

2 「意識の断層は、もう模型どころではない。たしかに自分の外に、空を覆うように巨大な壁が現実に存在していた」「顔を境界面にして内と外がひっくりかえる」(1回目の変形、雑誌『表現』版)

3 「あたりが真暗になった。その暗がりの中に、夜汽車の窓にうつったような、自分の顔が見えた。(……)コモン君の顔は裏返しになっていたんだ」(1回目の変形、書肆ユリイカ版)

4 「するすると、天が眼の中に流れ込む。重い天が、やがて全身に充満して、いやでも内蔵は体の外部に押し出されて行った」(2回目の変形)

5 「外界の一切が自分になり、自分でない、しかも今まで自分だった管のような部分が植物になるのだと思った」「意識の向う側で起こっている廃墟に、今さら逆らっても始まるまい」「声は耳の内側からひびき出したように聞こえた」(3回目の変形)

 なるほど…… これらの描写に矛盾しないかたちで、植物に変形したコモン君の世界を図にすることは出来るだろうか(簡単?)。

植物に変形したコモン君の世界

 植物に変形したコモン君の世界を図にしてみよう(これでよいはず…)。

デンドロカカリヤに変形したコモン君の世界

 (7)デンドロカカリヤに変形したコモン君の世界の図。

 いかが?

 いっけんすると図7は図6の「内」と「外」の内容を入れ替えただけのようにも思われる。「顔を境界面にして内と外がひっくりかえる」[3]ということですね。でも、よ~く見てみるとずいぶんと奇妙な世界になっていることが分かる(というかすごいことになってませんか?)。

 「外界の一切が自分になり~」[5]に注目してみよう。外界は図6の「外」の区域に相当する。それをつきつめた表現で言い換えれば「全宇宙」ということになる(そうよね)。「自分でない、しかも今まで自分だった管のような部分が植物になる」から分かるように、コモン君が植物に変形するとき、その意識は身体=存在から切り離される。それが図7のように「外」に置かれて「外界の一切」と入れ替わる(コモン君の意識は全宇宙があった場所に存在していた!)。

 参考 1:生物学的な視点(あるいはトポロジー的な視点)から人間を単純化して眺めると、そのつくりは口→胃→腸→肛門の消化器官を持ったストローのようなものと考えることが出来る。「今まで自分だった管のような部分」[5]は、意識と身体の分離の後に残された身体の本質を強調して「管」という表現が使われたのだろう。

 参考 2:コモン君がK植物園長に語った「内臓を葉にして表面に引きずり出し~」から推測すると、植物への変形では、顔が裏返るのにあわせて身体も消化器官を中心に裏返るのかもしれない(リアルに想像すると気持ちわるくなってくるので、深くは追求しないでおこう…)。

 では、図6で「外」に置かれていた「外界の一切」(全宇宙)はどこに消えてしまったのだろう? 「するすると、天が眼の中に流れ込む。重い天が、やがて全身に充満して~」[4]に注目しよう。そう、「外界の一切」はコモン君の「こころの世界」のあった場所、つまり「内」に流れ込んでいった(全宇宙がひとのこころのあった場所にするすると移ってしまうようなことがあってもよいのだろうか!)。

 コモン君が植物に変形したとき、その意識は植物(デンドロカカリヤ)のなかにあるのではなくて「外」に移ってしまう。全宇宙のあった場所に意識だけが、ぽつんとあるのだから「あたりが真暗になった」[3]というのもうなずける(これほどの孤独があるだろうか!)。

 「外」に移ったコモン君の意識は、存在しとての身体を持たない。コモン君の意識(こころの世界)は、意識の断層=巨大な壁によって、自分の意識と自分の意識以外の区域に仕切られる。「空を覆うように巨大な壁が現実に存在していた」[2]

 コモン君が植物に変形するとき「外界の一切」は「内」に移行する。だからといって「内」が「外」になってしまうわけではない(「内」と「外」の絶対的な位置関係は変化しない)。よって「声は耳の内側からひびき出したように聞こえた」[5]というようなことが起きる(なんて奇妙な世界なのだろう…)。

 「あのぼく」と「このぼく」についても見ておこう。「あのぼくとこのぼくとが入れちがいになって」[1]とあるように、図6では客体で「外」に置かれていた「あのぼく」(非存在)が、図7では植物に変形したコモン君(存在)として「内」に移っている(主体としての「このぼく」と入れ替わる)。意識の方からデンドロカカリヤに変形した「あのぼく」を眺めると、それは「意識が逆に顔の指向性を辿って原存在に還元されて行った」[1]というふうに理解できる。

 いかがでした? デンドロカカリヤに変形したコモン君の世界をリアルに思い描くことが出来ましたか?

 安部公房はすぐれた作家なので説明的な描写をしない(大切なことはさりげなく語られ、それを見つける楽しみが読者に与えられる)。なので、いくらか分かりにくいところもあるかもしれない。でも作品の細部を丁寧につなぎ合わせてゆけば、コモン君が植物に変形した後の世界を思い描くことは、それほどむつかしくないと思う。

 (それにしても、ここで展開されている世界はすごいよ…)

19文字が世界を転換する文学

 コモン君の植物への変形は、その容姿がデンドロカカリヤに変化したというだけではなくて、いま語ったような世界の転換こそが、その本質なのだと思う。「内」と「外」を入れ替えるという単純な操作によってもたらされた世界(世界のモデル)は、わたしたちの暮らす日常からもっとも遠くにあるもののように思われる。

 「顔を境界面にして内と外がひっくりかえる」

 わずか19文字が世界を転換する。安部公房は数学がとても得意だったという。このような発想(閃き)は、既存の方程式(関数)にほんの少し手を加えることで、いままで誰も知ることのなかった世界のモデルを創出することに似ているかもしれない。

 けっして複雑なことをしてるわけではないのに、そこから展開されてゆく物語世界は、わたしたちのこころを限りなく魅了する。『デンドロカカリヤ』は数学的〈エレガント〉の感じられる作品だと思う。

 安部公房は天才だ!

 次回は植物に変形したコモン君の世界について、さらにみてゆこう。

ご案内

 

広告を非表示にする
鞠十月堂