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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「デンドロカカリヤ」《9》 リルケ ダンテ ギリシャ神話

安部公房

 安部公房『デンドロカカリヤ』《8》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 『デンドロカカリヤ』とリルケとの関係をさらに見てゆこう。

オルフォイスに寄せるソネット 第二部〈12〉第1連

 書肆ユリイカ版では削られているけれど、初出の雑誌『表現』版では、コモン君がデンドロカカリヤに変形する過程で、いくらか奇妙にも思われる(全体の流れのなかでは違和感がある)描写が差し挟まれている。あらすじ《2》2回目の植物への変形の場面[4]を引用しよう。

 天が眼の中へ流れ込む。(……)顔の上では、どこにゆこうかとためらっているあやふやな腰つきの誰か……、見ればむろん自分にちがいない。思わず眼を閉じて、両手をそっちのほうに差しのべると、おお、十本の指の中で、それぞれ一つずつ、熱い太陽が燃えているじゃないか。

 太陽は一般に、明るさやあたたかさ、情熱、希望などの象徴として扱われることがおおい。ここでのコモン君はK嬢を待っていたのだから、植物に変形してしまうことは本意ではなかったと思う。そのような状況で両手の指のなかで計10個の太陽が燃えているというのは、いささかミスマッチな表現(描写)ではないだろうか(安部公房もそのことに気がついて、書肆ユリイカ版では削ったのかもしれないけれど…)。

 (この10個の太陽は《1》でご紹介した、「ぼく」が「君」にコモン君のイメージを語りかける場面に最初に登場します)

 それにしても、10個の熱い太陽が燃えているってなんだろう? と思う。太陽の存在は、わたしたちにとってなくてはならないものだけれど10個もいらないというか、10個もあったら大変なことになりそうというか…… 燃えすぎというか…… (ここは笑うところ?)

 わたしはこの描写のことがずっと気になっていた。あるとき、リルケの詩集を読んでいて、もしかしたらここと関係があるのではないだろうか、というところを見つけた。『オルフォイスに寄せるソネット』第二部〈12〉第1連を引用しよう(岩波文庫リルケ詩集』高安国世訳より)。

変身を意志せよ。おお、焰にこそ心魅せられてあれ、
焰の中、物は変身に輝きつつきみから去ってゆく。
地上のいっさいを統べている創造的精神は
弧を描く図形の高揚のうちに転回点を何よりも愛する。

 ここで歌われている「変身」の描写って、どこかコモン君の植物(デンドロカカリヤ)への変形の過程に似ていませんか?

 「おお、焰(Flamme)にこそ心魅せられてあれ」は、「おお、十本の指の中で、それぞれ一つずつ、熱い太陽が燃えているじゃないか」に呼応していて、「物は変身に輝きつつきみから去ってゆく」「弧を描く図形の高揚のうちに転回点(wendenden punkt)を~」は、わたしが《4》《7》で語った、顔を境界面にして内と外がひっくりかえる現象、つまり顔を転回点にして「物」(実在の世界)が「内」へと去ってゆく現象を想起させはしないだろうか…… (どうだろう…)

 そして第4連を読むとさらに興味深い事実が…… ということになるのだけれど、その前にいくらか視野をひろげて、植物への変形が作品のなかでどのように扱われているのか(展開されているのか)を見ておこう。

リルケ ダンテ ギリシャ神話

 『デンドロカカリヤ』では、植物への変形のイメージが、リルケ → ダンテ → ギリシャ神話を経由しつつ展開されている(あらすじ《2》[06][08][11]を参照)。

 それらがどのように展開されているのかを図にしてみると、

植物への変形 リルケ―ダンテ―ギリシャ神話

 (12)植物への変形のイメージが、リルケ → ダンテ → ギリシャ神話を経由して展開されてゆくの図。

 というふうになると思う(いかが?)。

 [1]リルケ『ドゥイノの悲歌』第九の悲歌――リルケの詩の世界では、その世界観が(直接言葉として歌われるのではなく)〈もの〉に転換されて表現される。樹(植物)はリルケお気に入りのモチーフだったようで、さまざまな詩に組み込まれている。

 「ただ、この世のはかなさをすごすためなら(……)月桂の樹であってはならないのか?」は、幸せに生きることが困難な(不確実な)人間の世界にあって、月桂樹(植物)であれば人間として幸せに生きようとすることの困難から解放されるだろうに、というくらいの意味だと思う(わたしの理解です…)。

 [2]ダンテ『神曲』第七獄 第二の円――自殺者たちの森。自己に対する暴力の罪を問われて罰を受ける。ボルヘスによれば、『神曲』は「地獄のイメージを通じて罪人の生活を、煉獄のイメージを通じて悔悛者の生活を、そして天国のイメージを通じて行い正しい人々の生活を示そうとした」ということです(岩波文庫『七つの夜』より)。

 コモン君には、なぜ自分が自殺者の罪に問われなければならないのかさっぱり分からなかった。(……)地獄に堕ちた人間は、地獄にあって、決して罪の意識を持たないものなのだ。ここには罰だけがあって罪はない。(……)つまり俺は知らずに、既に自殺してしまっていたのかもしれないとね。

 コモン君は、(よく分からないながらも)植物への変形=自殺(説?)を受け入れる。

 [3]ギリシャ神話――植物へと姿をかえた、ダフネ、シリンクス、ヘリアデス、他の皆さんの物語(あらすじ《2》[11]を参照)。このなかで、ダフネ (月桂樹)については、いくらか詳細に語られ考察されている。

 まず、アポロに掠奪されようとして、ペニーオスに救われ月桂樹になったダフネ。しかし、コモン君には、どうしても救われたとは思えなかった。やはりここにもダンテの地獄があるのではないだろうか。(……)月桂樹は人間よりも救われている……とは言っても、やはり素直に受け取れなかった。(……)単にゼウス一族の手の届かぬ罰の中に変形したということにすぎないじゃないか!

 コモン君はこのように考え、「これは人間の法律じゃない、ゼウスの奴隷たちの法律だ」と結論する(植物への変形が人間の法律=人間の在り方として否定される)。

 『デンドロカカリヤ』では植物への変形が、リルケ → ダンテ → ギリシャ神話を経由して、肯定的なものから否定的なものへと展開されている。

オルフォイスに寄せるソネット 第2部〈12〉第4連

 ふたたびリルケの詩にもどろう。『オルフォイスに寄せるソネット』第2部〈12〉第4連(最終連)を引用しよう。

すべて幸福な空間は別離の子供か孫であり、
彼らは驚きの心をもってその空間を通りぬけてゆく。そして変身したダフネは身を月桂樹と感じてこの方、きみが風となることをねがっている。

 『ドゥイノの悲歌』にひきつづき、ここにも月桂樹(ダフネ)が……

 『オルフォイスに寄せるソネット』第2部〈12〉は、変身を主題にして歌われる。第4連では「幸福な空間」と月桂樹に変身したダフネが並べて置かれ、「通りぬけてゆく子供たち」「(吹き抜けてゆく)風」の共通したイメージによって互いが軽やかに結びつけられる(ダフネの月桂樹への変身は、その姿が樹に変わるというだけではなくて、「空間」の変容、あるいは「幸福な空間」の誕生として歌われている…)。

 第2部〈12〉で展開されている「変身」「空間」「樹」(植物)の3つのモチーフの組み合わせは、コモン君の植物へ変形とその世界(空間)の転換と共通していると思いませんか(皆さんはどのように思われますか?)。

リルケの詩の世界に打ち込まれたダンテの楔

 『デンドロカカリヤ』に組み込まれているリルケ(でも名前はふせられている)は『ドゥイノの悲歌』(第九の悲歌)冒頭部分の4行ほどにすぎない。でも作品を丁寧に読み込んでゆくと、詩の引用は水面上に顔を覗かせている氷山の一角にすぎないかのように、その背後にリルケとの深い関係がじりじりと見えてくる(そして、その関係はこれまで語ってきたことにとどまらない、まだまだつづきますよ…)。

 なぜ、このようなことになっているのだろう…… これが、戦時下から戦後まもない時期にかけて安部公房が愛してやまなかった(耽溺していた)リルケへのオマージュということなら分かりやすい。でも、ここでのリルケのあつかいはそのようにはなっていない(その世界観が否定される方向で展開されている)。

 それにしてもと思う…… リルケは月桂樹(ダフネ)を人間には持ち得ない(幸せな)空間=世界を持つ存在として扱っているのに対して、安部公房は月桂樹(ダフネ)を人間の法律=人間の在り方の否定として展開している。同じギリシャ神話なのにどうして? と思わなくもない(どうしてだろうね?)。

 『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスに寄せるソネット』では、月桂樹(ダフネ)が詩の世界のなかでそのまま(直接)展開されている。ギリシャ神話などのすぐれた物語=イメージを下敷きにして作品世界を構築するというのは、よくある手法だと思う。でも『デンドロカカリヤ』では、それとは違うことがおこなわれている。

 図12を見てみると、リルケギリシャ神話のあいだにダンテが差し挟まれていることが分かる(そうすると…)。リルケの詩の世界とギリシャ神話との関係のなかにダンテ『神曲』を楔のように打ち込むことで(新たな視点を導入することで)、その(幸福な)関係を反転させている。

 なんだこの反転必殺技みたいな手法……

 これって、すごくないですか(後年の巨匠安部公房お得意の表を裏に、ポジをネガに転換する手法がすでにここに使われている!)。普通、このようなことは出来ないというか、そもそも発想として出てこない気がする(小説を読んで、なるほどと肯く発想が一般レベルで可能かというと、ほぼ無理だと思う)。

 安部公房は性格がよほど屈折していたのだろうか、それとも、すぐれた知性だけが手にすることの出来る閃きなのか……

 安部公房は天才だ!

 次回は樹(植物)のイメージを語ろう(暫定)。

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