鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「密会」《11》 タイトルは「密会」

 安部公房『密会』《10》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物は《2》に、あらすじは《3》に書いてあります)。

 『密会』をはじめて読んだとき(ずいぶんとむかしのことです)から、ずっと気になっていたことがある。この作品のタイトルは『密会』だけれど、これってどうなのだろう…… 『密会』は、この作品の内容や主題、世界観をあらわす最適なタイトルだろうか?

 今回は作品のタイトル『密会』について語ってみよう(皆さんは、この作品のタイトルにどのような印象をお持ちですか?)。

これまでの長編作品のタイトル

 ここで『砂の女』以降に発表された長編作品(『密会』を除く)の内容とタイトルの関係を簡単に見ておこう(安部公房の作品を短い言葉であらわすのはむつかしい、内容は参考ということで…)。

砂の女(1962)――砂に埋もれそうな集落の深い砂穴の底に暮らす女。その一軒家に泊めてもらった男は、そこから出られなくなってしまう。

他人の顔(1964)――事故で自分の顔を失った男が他人の顔のリアルな仮面をつける。

燃えつきた地図(1967)――探偵が失踪者の足どりを追いかけているうちに、手がかり(捜索のための情報=地図)を次々と失ってゆく。

箱男(1973)――ダンボールの箱を頭からすっぽりとかぶった箱男の物語。

方舟さくら丸(1984)――方舟 → 地下の巨大な核シェルター、さくら → 偽客、国家の象徴。地下の採石場跡=核シェルターを舞台にした作品。

カンガルー・ノート(1991)――脛から〈かいわれ大根〉が生えてきた男が、自走するベッドに乗って冥府(?)を巡る。

 このように見てみると、『カンガルー・ノート』を別にして、作品のタイトルとその内容は、よく合っているように思う。

 (『カンガルー・ノート』は『新潮』に連載され、その第1回に「カンガルー・ノート」が出てくる。このタイトルは、そこからとられたものだろうか。その後、この物語はタイトルとはあまり関係のない内容のまま展開してゆくけれど…)

 では『密会』はどうだろう……

『密会』にふさわしいタイトルは?

 『密会』のあらすじは《3》でご紹介したとおり。わたしのイメージでポイントと思われるところを簡単にまとめておこう。

 まあ、こんな感じかな……

 ここで、次のように問いかけてみよう。この作品にタイトルが与えられていなかったとしたら、どのようなタイトルがふさわしいだろう? (皆さんだったら、どんなタイトルにしますか?)

 なかなかの難問…… わたしだったらどうするだろう? この作品の内容、イメージを適切にいいあらわすタイトルを考えるのはむつかしい……

 『方舟さくら丸』のように、その舞台をタイトルにするのがよいかもしれない。『病院都市』や『迷宮の病院』くらいでどうかな(あまり面白みのあるタイトルとは言えませんが…)。そういえば『方舟さくら丸』の前のタイトルが『志願囚人』だったのをヒントに『志願患者』というのはどうだろう(でも、ちょっと違うか…)。う~ん……

 やはりこの作品には『密会』がふさわしいのだろうか、でもなあ…… (ぴったりのタイトルを思いついた方はお知らせ下さい!)

『密会』は密会?

 この作品のタイトル『密会』は「ぼく」と溶骨症の娘の関係からとられたものだと思われる(そうよね…)。でも、「ぼく」と溶骨症の娘のストーリーがこの作品の中心かと言われると、それはちょっと違うという気がする(そうでしょ)。

 それに、このふたりの関係って、そもそも密会なのだろうか? 密会を手もとの辞書(新明解国語辞典)で調べてみると「恋愛関係にある男女が人目を忍んで会うこと」とある。

 少し整理して考えてみよう。

 4日目の朝に「ぼく」は溶骨症の娘を病室から連れ出す。これはふたりの恋愛感情からというより、13歳の女の子を副院長の魔の手(強制わいせつなど)から救いたいというのがいちばんの動機だという気がする。この時点では、「ぼく」の行為は「密会」というより「救出」のニュアンスがつよいように思う。

 溶骨症の娘を病室から連れ出すと、ふたりは地下の旧病院跡に身を隠す。人目を忍んでふたりで会っているのだから「密会」と言えなくもないけれど、このような場合「逃亡生活」くらいのほうがしっくりくる。

 前夜祭の日に「ぼく」は溶骨症の娘を連れて地上に出る。妻を見つけ出し、溶骨症の娘といっしょに病院から脱出する計画だった。でも、妻を見つけ出すことはかなわず、ふたりは旧病院跡の地下に閉じ込められてしまう。ふたりは「監禁」(投獄?)されてしまったわけだけれど、やはりこれも「密会」なのだろうか……

密会の意味

 密会には「人目を忍んで会う」という行為のほかに、「おおっぴらに出来ない恋愛」のイメージがある。その意味では「ぼく」が溶骨症の娘(13才の少女)に恋心を抱いているとしたら、それは成人男性として「おおっぴらに出来ない」ことなので、そこにはふたりの状況にかかわらず「密会」のニュアンスが生まれてくる。

 (溶骨症の娘に対する「ぼく」の心理が、父親が娘に注ぐような愛情だとしたら、それは人間的な愛であり「密会」のニュアンスからは遠ざかってしまうように思う)

 「ぼく」は溶骨症の娘に恋をしているのだろうか? たぶんそうなのだろう…… 安部公房は談話「裏からみたユートピア」で、このふたりの関係について次のように語っている。

 やや暗い、絶望的な雰囲気で小説は終わるけれど、その「男」と娘のあいだには、一種マゾヒスティックな快楽みたいなものが感じられるかもしれない。

 そうかあ…… それが恋だとしたら、ずいぶんと切ない恋だなあと思う。

 このような『密会』の結末には妙に納得してしまうものがある(それを認めないわけにはいかない)。では、そのことはいったいなにを意味しているのだろう。「ぼく」と溶骨症の娘の切ない恋は、わたしがこれまで語ってきた『密会』の物語と、どのように関係してくるのだろう(あるいは関係しないのか…)。

 このことについては、溶骨症の娘について語るときにもういちどよく考えてみたい。

 次回は仮面女について語ろう。

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