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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「密会」《13》 溶骨症の娘

安部公房

 安部公房『密会』《12》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物は《2》に、あらすじは《3》に書いてあります)。

 溶骨症の娘について語ってみよう。

彼女は軟骨外科病棟に入院している

 溶骨症の娘は軟骨外科病棟の二階、八号室に入院している。軟骨外科は安部公房の造語(詳細は《6》を参照)で、軟骨+外科の組み合わせにはどこか奇妙なおかしみが感じられる(と思う)。

 軟骨のイメージは安部公房のお気に入りらしく、インタビュー「都市への回路」では「まあ、これは冗談として受け取ってもらってもかまわないんだ」と言葉を添えつつ、次のように語っている。

 人間というものは、要するに皮の袋に詰め込まれた有機物だろ。そして人間は、あらゆる生物の中で、一番機能が分化しているわけだから、袋の中の有機物の各部分も分節しなければいけない。そのためには骨みたいなもので中に梁を入れて、いろんな部屋に分けなきゃいけない。しかし骨が動かなければ突っ張ってしまって、植物みたいなものだ。各パートに分節した機能を動かすというのは、当然、骨の中の軟骨の部分になる。という意味で、ある意味で人間の形態上の本質を軟骨であると……

 安部公房らしい人間への洞察といいますか、オリジナルな発想といいますか、このようなことは安部公房以外誰にも語れないと思う…… 軟骨が人間の分節した機能を働かせるための本質なら、骨の「梁」としての役割もまた、人間の本質に関係したことという気がする。

 溶骨症では、本来強固な「梁」であるはずの骨がゼリーのように流体化してしまう(女秘書は「傘の骨が急に融けはじめたら、どんな形になると思う」と「ぼく」にそのイメージを伝えている、この状態を人間でリアルに想像すると、ちょっと不気味というか怖い…)。

 軟骨が機能しなくては、人間のからだは大理石の彫像のように硬直してしまう。それに対して骨が流体化した場合はというと、そのやわらかさのために、定まった形(ひとの形)を保つことが出来なくなる。これらのことを一般の人間をその真ん中において考えてみると、

 軟骨の欠如――彫像のように硬直した状態(固くこわばっている存在)
 骨と軟骨の適切な組み合わせ――人間
 骨の流体化――ひとの形を維持出来ない(限りなくやわらかな存在)

 というようなイメージでまとめることが出来ると思う。

 溶骨症の娘を「限りなくやわらかな存在」とすると、特殊なコルセットを装着しているために腰回りの自由がきかない副院長や、他者の気持ちを考えることが出来ずに一方的な愛を求める女秘書などは、身体や精神の側面から「固くこわばっている存在」のイメージを与えられた登場人物といえるかもしれない。

完全患者の魂

 副院長(馬)は「ぼく」を遅い夕食に招き、溶骨症の娘についてこんなふうに語っている。

 医者という檻の扉を開けて、患者の領分に誘ってくれる。きっと完全患者の魂を持ち合わせているからに違いない。わたしに配分できるほどの密度の濃い魂なんだ。なんとか彼女の心を理解してやろう。せめて彼女の魂に似せるよう努力してみよう……

 (……)

 理想の患者……患者の中の患者……永久に癒やされぬ者……死と添い寝する日々……宿主よりも大きくなった寄生木……不具の化身……

 溶骨症の娘のなにがそれほどまでに副院長(馬)のこころを捉えたのだろうと思うと不思議な気もする。安部公房は副院長(馬)について「自己の患者化にひたすら情熱を傾けている医者」と語っている(詳細は《8》を参照)。

 副院長(馬)の患者化へのあくなき情熱は、どこからもたらされたものだろう? ここで語られている「完全患者の魂」とは、いったいどのようなものだろう? 患者を『密会』の主題である弱者に置き換えると「完全弱者の魂」となるけれど……

 患者=弱者であればこその(医者=強者ではけっしてうかがい知ることのできない)深い愛がそこにあるからなのだろうか。

 (だからといって溶骨症の娘と性交を試みようとした心理には、やはり許せないものがあるよ…)

弱者の存在と裏からみたユートピア

 溶骨症の娘について考えるとき、わたしのなかに思い浮かぶひとつの映像がある。安部公房のファンの方なら『箱男』におさめられた写真のなかに、車椅子の少女がいることを覚えていらっしゃるだろうか。わたしのなかでは、この車椅子の少女と溶骨症の娘とは、どこか深いところで分かちがたく結びついている(車椅子の少女の写真は『箱男』《5》を参照)。

 この車椅子の少女についての詳しい記述はない(「万博が開かれたときにソ連のパヴィリオンの前で写したもの」らしい…)。どうして少女は車椅子に乗っているのだろう。なにかの病気だろうか、怪我だろうか、あるいは生まれながらの障害によるものだろうか……

 このような写真を撮ることについて、安部公房はエッセイ「シャボン玉の皮」で、それらの存在が「恐ろしい声で叫ぶのを聞いたせいなのだ。それ以上の説明は出来ない」と語っている。

 ぼくはその叫びを恐れながら、同時に聞こえなくなることを恐れているような気もする。もしあの叫び声が聞こえなくなったら、(……)あらゆる創造の衝動が消えてしまいそうな予感がある。

 車椅子の少女が溶骨症の娘なのだと空想してみよう……

 安部公房は、それらの存在(被写体)について「それは人間の恥部に似ている。虚しく、壮麗で、ただ存在することによってあらゆる意味を圧倒してしまう」と語る。

 溶骨症の娘は、患者=弱者であり、幼くて、従順で、エロティックでもある。融けてゆく骨の限りのないやわらかさのなかで、やがてひとの形を失ってしまう。わたしたちの暮らす世界から彼女を見れば、それは安部公房が語るように「恐ろしい声で叫ぶ」ような存在かもしれない。でも『密会』の物語世界、裏からみたユートピアでは、彼女こそがヒロインであり創造の衝動を呼び起こすミューズなのだと思う。

 彼女は「ただ存在することによってあらゆる意味を圧倒してしまう」ほどに、わたしたちのこころを捉えてはなさない。

 次回は『密会』の結末について語ろう。

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