安部公房 小説の技術《2》 愛される登場人物たち
今回は小説の登場人物たちについて語ってみよう。
弱者と凡庸
わたしは安部公房の小説に、不思議な居心地のよさを感じることがある。どうしてだろう? と考えてみても、よくは分からない。
それは、小説の内容(物語)とはあまり関係がないような気がしている。登場人物たちの存在の仕方というか、小説世界そのものが奇妙な親密さを持ってわたしのこころに馴染んでくる。
そのことといくらか関係しているのか、いないのか…… 前回はインタビュー「錨なき方舟の時代」からの引用だったので、今回はその続編から少し引用してみよう。
『死に急ぐ鯨たち』から、インタビュー「破滅と再生1」より(ここでの話題の中心は小説『方舟さくら丸』)。
どうも僕の小説の主人公は、世間からはみ出してしまった救いようのない無能力者であることが多い。強者よりも弱者、勝者よりも敗者に時代を感じてしまうんだ。
このインタビューがおこなわれたのは1985年。ずいぶんとむかしのことだけれど、わたしのなかでこの言葉は、いまもそうだなあと思う。
今度の小説ばかりじゃないな、考えてみるとほとんどの作品の登場人物が、おそろしく凡庸な連中ばかりだろう。(……)けっきょく凡庸のなかに時代を解く鍵をみてしまうせいだろうな。でも単に凡庸に対する共感や愛情だけではない。(……)……凡庸のアンテナではじめて感知される時代の怒りじゃないだろうか。
なるほど。安部公房の視線はある意味とても低い。これを安部公房のやさしさと言ったらいけないのかな…… 「凡庸のアンテナで~」は、さすがの洞察力といった印象。
安部公房はここで「凡庸」と「無能」はちがうという。「凡庸はむしろ道化がつける仮面」ということらしい。わたしはこのひと言だけで、なんだか泣けてくる…… (誰もが、なにかしら凡庸の仮面をつけた道化としてこの世界を生きている…)
『方舟さくら丸』の乗組員は全員がある意味での道化で、道化の集団みたいな小説になっているけれど、(……)いったん姿勢をきめたら、あとはごく自然に登場人物が動いてくれた。自分で言うのもへんだけれど、僕は『さくら丸』の乗組員全員に好意的だし、まったく憎めないな。
このような言葉を聞くと、君たち、安部公房の小説の登場人物でよかったね、と声をかけてあげたくなる。
愛される登場人物たち
この話題でのつづき。
書いているあいだ、作者はある程度、無節操にならざるを得ないような気もする。肯定的人物か、否定的人物かで色分けするよりは、むしろ無節操に登場人物をまんべんなく愛したほうがいい。
あの安部公房が「愛」なんて言葉を使うのは意外? でも、わたしにはこの「愛」がよく分かる気がする。上手く言えないけれど、あのような小説世界を「愛」なしで組み上げたのでは、救いがなさすぎて読めないよ……
「ぼく」の父親である「猪突」について、安部公房は「書きながら、嫌悪と同時に、ペーソスというか、悲しみというか、妙に共感するものを感じていたな。否定いっぽうだけじゃなかったわけだ」と語る。『方舟さくら丸』を読んで、「猪突」が素敵(人として好感が持てる)と感じる人はいないと思うけれど、その存在のリアリティはちょっといいなと思ってしまうわたしがいる……
安部公房は小説の登場人物たちを、オーケストラの楽器に例えてこの話題を終える。
例えばオーケストラをつくるときでも、この流れはヴァイオリンでつくる、この部分はピアノ、この部分は管弦楽というふうに、それぞれふさわしい音色があるでしょう。どの音色もそれなりの存在理由を持っているわけだ。このやり方は集中力がいるし、時間もかかる。(……)でもその分、音色の構造から音色以上のものを読み取ることが可能になるんじゃないか。
ここでのまとめ方も、また安部公房らしい(ここで触れられている「構造」は、彼の小説を読むときのポイントでもあると思うので、いつかそのあたりのことも語ってみたい)。
安部公房は、この世界の直接目には見えてこない(言葉では簡単にいい表せない)その成り立ち(構造)を、小説の中で見せてくれる(経験させてくれる)。それは、わたし達が漠然と感じているよりは、ひどい世界だったりする。
でも不思議なことにそのような世界を経験しても、否定的な気持ちにはあまりならない。なんかいいなと思ってしまうわたしがいる。そこに安部公房の「愛」があるからなのかな…… (でも、よく分からないよ)
- 次回 小説の技術《3》 につづく(予定)
- 前回 小説の技術《1》 書いては捨てる作業
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