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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《番外編3》 ウィキペディア 「箱男」 ノート みしまるももについて

 安部公房箱男《番外編2》からのつづき(本編はこちら)。

 ひさしぶりにウィキペディア箱男」を見てみたところ、全面的に書き直されていました。ざっと読んだところでは、わたしの『箱男』シリーズに関係した箇所(剽窃)は修正されているようです(わたしがポイントと考える箇所の引用などはそのままですが、これは仕方ないでしょう…)。

ウィキペディア箱男」最新の版
http://ja.wikipedia.org/wiki/箱男

みしまるもも氏が編集された過去の版(2014年7月20日)
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=箱男&oldid=52342282 

 わたしとしては、これくらいにしたいところですが、みしまるもも氏が「ノート」の方であれこれと間違ったことを語っていらっしゃるみたいなので、いくらか語ってみようと思います(自分の勉強のためとは思いつつも、正直、気分は乗ってきません…)。

「書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な~」の章について

 《番外編1》での、わたしの指摘は、みしまるもも氏がはじめに書かれた「あらすじ」についての指摘です。その当時のわたしの理解では、あの「あらすじ」は箱男の「ぼく」が実際に経験したこと(現実)に沿って書かれているように思われました。なぜなら、普通「あらすじ」とは、そのようなものだからです。その視点から指摘しました。

 その後、みしまるもも氏が「それが「現実」か「空想」かは、はっきりしていません」と語られたので、清末浩平氏の論文から引用さてせいただきつつ《番外編2》でいくらか語りました。

 みしまるもも氏の語られる「それぞれの章をどう解釈しようが~ 完全には全体の矛盾は解消されません」という問題と、「書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって」の後半の内容が「現実」「空想(虚構)」であるかということは、個別の独立した問題になります(違いますか?)(すべての矛盾が解消されないからといって、整合性を保てない解釈をしてよい理由にはなりません)。現実か空想か分からないこというご判断であれば、現実に即して書かれたと思われる当初の「あらすじ」のなかに、その内容を組み込むのは適切ではないでしょう(それを組み込まれたということは、あの箇所を実際に起こったこと、つまり「現実」と単純に勘違いされたからではないでしょうか)。

 例えば苅部直などは、物語世界を一応そのまま概略としてまとめるやり方をしており、〈ぼく〉と〈贋医者〉が箱の所有権をめぐって交渉する前述の例の章も現実のことのように捉えていました。

 ということで、「物語世界を一応そのまま概略としてまとめるやり方」ということは「現実」「空想(虚構)」の分け隔て(解釈)をしないというこでしょうか(苅部直著作を読んでいないので正確なことは分かりませんが…)。そのような基準を設定して「まとめる」というのなら、そのよう「なまとめ方」も可能でしょう(わたしが《番外編1》で指摘した「各章を適切に要約して順番に書いてゆく」と同じような手法でしょうか)。

 ただ、これも、みしまるもも氏の語られた「それが「現実」か「空想」かは、はっきりしていません」とは、意味の違うことです。そもそも「現実」と「空想」の区別(解釈)をしないわけですから。みしまるもも氏の語られる「現実のことのように捉えていました」というのはどういうことでしょう? 現実として捉えていたのであれば「現実として捉えていました」と表現されるはずです。苅部直はあの章を「現実」と位置づけておられるのですか? (プロの方が、そのような乱暴な解釈をされるとは思われませんが…)

 この章について詳細に語ることも出来ますが、長くなりそうなのでこれくらいにしておきます。

論文や解説を引用した理由について

 平岡篤頼氏、杉浦幸恵氏、清末浩平氏の論文を引用させていただいたのは、そこに「軍医殿=箱男」の要素が組み込まれていたからです。わたしの『箱男』シリーズでは、一貫して「軍医殿は箱男ではない」と論じていて、それをポイントのひとつにあげています。「軍医殿=箱男」の要素を含むものと、そうではない「軍医殿≠箱男」の違いから、わたしの『箱男』シリーズの独創性を皆さんに理解していただけると考えました。

 みしまるもも氏は、わたしがこちらで語ったこととは違うことを、あれこれと語られておられるようです。なぜそのようなことを書かれるのか…… 論文や解説について、わたしの分かる範囲で語ってみたいと思います(明らかな間違いなどありましたらご指摘下さい)。

杉浦幸恵氏の論文について

 杉浦幸恵氏の論文については、わたしには正直、よく分からないところもありますが…… みしまるもも氏が指摘されたところに関係する箇所の全てを引用すると次のようになっています。

 ここで「君」と呼びかけられている〈贋医者〉は、『箱男』の冒頭とまったく同じものを書いている。しかし彼が書いているのは「ぼく」=〈軍医〉と「そっくりの」ノートであるということから、本物のノート、つまり冒頭でノートを書いているのは〈軍医〉ということになってしまう。[1]8)「本物」と「贋物」という対立という観点から見た場合、〈軍医〉は医者として「本物」であるため、〈贋医者〉に対立する存在、つまり箱男であるという結論が導き出されているのである。[2]

 8) Cの場合の語り手は〈ぼく〉であるとみるのが一般的である。だが、〈ぼく〉が語っているのだとしたら視点の侵略ということになる。ここでは、〈ぼく〉の語る物語に無関係な〈軍医〉が語り手となりうる仕組みを示したい。

 ※ [1]~[2]の番号を入れました。

 この場合[1]→ 8) →[2]の順で読めます。つまり本文から[1]ということが理解できて、それを 8) の方向で解釈して、その結論として[2]があるということではありませんか? つまり氏が引用された 8) の箇所は[1]の解釈の方向性であり、その結論が[2]ということではありませんか?

 「〈軍医〉が語り手となりうる仕組みを示したい」8)
 「〈軍医〉は医者として「本物」であるため~ つまり箱男であるという結論が導き出されているのである」[2]

 ということから、8) は、軍医殿=箱男(概念)の関係の否定ではないと思われます。

 みしまるもも氏は、8)の前半部分だけを引用して、後半部分「〈軍医〉が語り手となりうる仕組みを示したい」を意図的に省略しておられるようです。このような引用の仕方は問題があるでしょう。

 [1]は本文に明示的に書かれた軍医殿と箱男の関係(結びつき)ですから、それをそのまま理解する限り否定することは出来ないはずです(それを直接否定できるのは「作者のうっかりミス」、あるいは「叙述トリック」くらいではないでしょうか)。

 解釈ということでは、わたしの「箱男のノート」の箇所の解釈は「叙述トリック」 (軍医殿と同じ型式のノートを贋医者が使っていた)ということですが、杉浦幸恵氏の解釈は「軍医殿が冒頭でノートを書いている」というストレートなもの (一般的なもの)です。また、わたしは「それが杉浦の主張」というようなことは語っていません。

 参考:杉浦幸恵氏の論文に於ける〈ぼく〉の規定が、わたしにはよく分からないのですが…… ノートの「表記」から考えると、語り手は「ぼく」になります。つまり、語っているのは「ぼく」です。一人称であれば(そのように捉えれば)、それ以外の解釈は存在しません(小説のセオリーからの帰結)。ノートの表記は、たしかに「ぼく」なのですが、『箱男』は手記という設定になっています。ということは、ノートに「ぼく」と書いているのは誰かという問題が生じてきます(『箱男』では、この問題が小説内で直接提示されているところがポイントです)。書かれている「ぼく」はノート(本文)に明示されていますが、それを書いている「ぼく」は誰なのか? 書かれている「ぼく」と書いている「ぼく(あるいは書いている誰か)」の関係はどのようなものか? 語られている「ぼく」と語っている「ぼく(あるいは語っている誰か)」の関係はどのようなものか? 杉浦氏の論文はそのあたりの仕組み(関係性)を小説の「語り」と「記述」の視点から分析したもののように思われます(わたしの理解)。

清末浩平氏の論文 平岡篤頼氏の解説について

 わたしにはみしまるもも氏の語られている内容が ??? なのですが…… 同じところを引用します。

 「軍医殿」はどうやら箱男のようであるが、彼の周囲の人間関係は〈14〉までの「ぼく」と「贋箱男」=医者と「彼女」との三角関係に類似しており、また、「軍医殿」が「戸山葉子」の裸を裸を見たいと「贋医者」に要求するという点など、〈14〉までの物語と同じモティーフが多数現れる。しかし、ここが重要なのであるが、「贋医者」―「軍医殿」―「奈奈」―「戸山葉子」という人物たちは、〈14〉までの「ぼく」―「贋箱男」―「彼女」ではない。関係として類似してはいるが、明らかに別の人物としてテキスト上に登場しているのである。

 と、なっています。これは「「軍医殿」はどうやら箱男のようである~」が否定されている文章でしょうか? わたしにはそのようには思われませんが…… 明示されつづけていなければ、それは否定でしょうか? だとしたら戸山葉子が看護婦であることも否定されているのではないでしょうか。なぜなら戸山葉子=看護婦(看護婦見習い)と記述されていないからです。氏の語られる理屈はそのようなもの(一般には屁理屈と呼ばれる)ではありませんか?

 また、平岡篤頼の解説についても「軍医殿がほんものの医者であるがゆえに、ほんものの箱男になり~」から、軍医殿=箱男と記述することは、常識の範囲で妥当ではないでしょうか?

 ※ みしまるもも氏は「図式」という表現にこだわりがあるようです。わたしの理解としては、論じられている図式のなかに軍医殿=箱男の要素が含まれている(あるいは潜在的に含まれている)というくらいの意味でつかっています。このような使い方で問題はないと思うのですが、より分かりやすい表現として《番外編1~2》では「図式」に「~の関係を提示して」「~の関係を考慮しながら」などの言葉を補足しました。

わたしの引用とオリジナリティについて

 みしまるもも氏の「何かご自身だけが特別な発見をしていると言いたいがための、部分的な抜粋だと思います」は、その通りです。「言いたいがための~」というような書き方をされるということは、その意図がよく理解できなかったということでしょうか? わたしの主張は、ウィキペディアにわたしのブログの内容を組み入れてほしくないと言うことですから(剽窃の指摘)、そのためには、わたしの『箱男』シリーズの独創性、他の方との違いを分かりやすいかたちで提示する必要があります。そのためにあのような引用をおこないました。

 それでですね、みしまるもも氏は次のように語られています。

 〈ぼく〉とそっくりなノートの場面があるからといって、〈軍医〉が〈ぼく(箱男)〉と同一人物だという短絡的な導きには、やはり誰も進んではいませんでした。時間的な矛盾やその他の観点から見て、それがありえないことは明白なので、そのような断定など誰もしていないことは、各論文をよくきちんと読めばわかることです。(……)なので、〈軍医〉が〈ぼく(箱男)〉ではないという解釈は、特別、ブログ主さんだけの特異な発見や解釈ではありません。

 わたしは、こちらのブログで「同一人物」というようなことは一度も語っていません。??? これは《番外編2》でも指摘しましたが、なぜそのような、わたしが語っていないことを書かれるのですか? わたしは一貫して「軍医殿=箱男」と表記しています。これは、軍医殿=箱男(概念)ということであり、軍医殿が元カメラマンの箱男「ぼく」であるというような意味で使っているのではないことは、普通に理解していただけるはずだと思いますが(もしそうなら、その表記は「軍医殿=元カメラマンの「ぼく」」となります)、みしまるもも氏には理解がむつかしい内容だったでしょうか? (それとも、これはわざとやっておられるのですか?)

 あの箇所を(叙述トリックではなく)、そのまま理解すれば、軍医殿が冒頭の「ぼくの場合」の章を書いたということです。冒頭の章は、このノートを書いているのが箱男であることを宣言した文章です。そのことにより、ノートの書き手は必然的に箱男となり、ここでは軍医殿=箱男(概念)となります。

 冒頭の章(文庫本で全5行)に「ぼく」についての詳細は書かれていません。ということは、それを宣言するのが男性であれば、それが誰であっても記述された内容に矛盾が生じません。この箇所を「ぼく」が書いたと宣言すれば、その人物が箱男になれるという仕掛けです(このあたり巧みな構成です)。

 小説の分析とは、そのように読むこと(理解すること)から、はじめられるのではありませんか? そこから先は、さまざまな解釈、展開が可能でしょう。例えば、軍医殿の空想として、元カメラマンの「ぼく」の物語がそれ以降の章で語られてもよいわけです。

 わたしの理解では、「Cの場合」の章で軍医殿=箱男(概念)が提示され、次の章「続・供述書」で、それが具体的イメージ、ダンボールをかぶった変死体=軍医殿として展開されます。つまり軍医殿=箱男(概念)→軍医殿=箱男(実在)の方向に読者をミスリードしてゆくわけです。

 参考:小説(探偵小説)には、さまざまなルールがありますが、一般に「台詞」のところで「嘘」を言うことは出来ますが「地の文」に「嘘」を書くことは出来ません。「そのとき僕は東京にいた」と嘘を「言うこと」は出来ても、「地の文」に「そのとき僕は東京にいた」と書いてそれが「嘘」ということになれば、小説の記述の信憑性はゼロになり、小説として破綻します。そのルールから考えると「Cの場合」の内容が「嘘」であってはならないということになります。また「供述書」はそうではありません。いくらでも「嘘」を書くことが出来ます。犯人は「嘘の供述」をして、より読者を混乱させるという仕掛けです。

 あの箇所で、わたしが考えたことは次のようなことです。

 わたしが引用した三氏とも、すくなくとも一度は軍医殿と箱男(概念)の結びつき(その関係)に触れられています。これは事実です。「箱男のノート」の箇所は、軍医殿と箱男(概念)との関係をつよく結びつけ、示唆します。なので、通常これを無視することは出来ないはずです。また無視してはいけません(触れないわけにはいかないというくらいの意味です)。

 ということは(わたしの理解では)、論文や解説においてその箇所を、いかに上手く収めるかを迫られるわけです。ここで軍医殿が実在の人物として冒頭の元カメラマンの「ぼく」と同一であると解釈することは、いささか無理があります(無理すじです)。ということで、そのような解釈とは違う「上手い理屈」はないかと皆さん知恵をしぼっておられる、そういうことではないのですか? あるいは、軽く触れておいて、でも深追いはせず無難にやりすごす、という方法もあるでしょう。「箱男のノート」の箇所は、そのような「上手い理屈」や「無難にやりすごすこと」を必然的に求められるということです。みしまるもも氏の語られる「相互の入れ替わりからの対の概念転換」などもそうかもしれません(それが適切かどうかは、わたしには判断できませんけど)。

 だからこそ、あの箇所が「叙述トリック」であると理解(解釈)することの意味はとても大きいのです(このような指摘はすでにありますか? もしあれば訂正します)。わたしの発見は「叙述トリック」であり、「軍医殿が元カメラマンの箱男「ぼく」ではない」という発見(解釈)ではありません。みしまるもも氏は、なぜそのような「嘘」を書かれるのですか?

 もういちど繰り返します。なぜそのような「嘘」を書かれるのですか? わたしの発見は「箱男のノート」の箇所の「叙述トリック」です。そのことによって、既存の論とわたしの論とでは、次のような「違い」が生じてくるように思います。

 既存の論――軍医殿と箱男の結びつきを考慮する必要がある。
 わたしの論――軍医殿と箱男の直接的な結びつきを考えなくてもよくなる。

 こまかく見ればさまざまなご意見があるでしょう。でも、このふたつのラインは本質的に異なるものです。つまり「軍医殿は箱男ではない」とシンプルに言い切ることが出来るような推測が、あのような指摘(叙述トリック)によってはじめて可能になります。そうすることで、わたしが『箱男』シリーズで語ったような仮説へと展開できるわけです。この場合「相互の入れ替わりからの対の概念転換」というような(怪しげな?)恣意的手続き、工夫(仕掛け)は必要ありません。これはとても魅力的なことです。

 また、氏はわたしの解釈(仮説)のオリジナリティ(それは『箱男』シリーズのオリジナリティでもある)を否定しておられるみたいですが、「箱男のノート」の箇所を叙述トリックと考えない限り、わたしが『箱男』シリーズで展開したような仮説「軍医殿を箱男に偽装するために元カメラマンの箱男「ぼく」が狙撃された」を破綻なく導くことは出来ません(もっとも大切な指摘)。わたしの仮説は、贋医者も軍医殿も実在しているのです。

  1. 軍医殿=箱男は空想~虚構の存在であり、よって軍医殿は実在する箱男ではなかった。
  2. 軍医殿は空想~虚構ではなく実在し、また実在する軍医殿が箱男ではなかった。

 みしまるもも氏の語られる(既存の論の)解釈[1]と、わたしの『箱男』シリーズの解釈[2]は本質的に違うものです。贋医者や軍医殿の存在が空想(虚構)だとしたら、そのような随分と奇妙な空想を記述する「ぼく」の「動機」や「必然性」はどこにあるのでしょう? 小説にとってリアリティとはなんでしょうか? わたしの読み筋は、最低限のリアリティ(真実性)は獲得できていると考えています。わたしの『箱男』シリーズは、十分にオリジナルなものではないでしょうか。

 みしまるもも氏のこれらの適切とは思えない発言の数々は、氏の理解が不十分なためでしょうか? それとも、わたしの記事からの剽窃やこれまでの間違った発言を認めたくないために意図的にやっておられる行為でしょうか?

 ご自身の行為が剽窃ではないと主張なさりたいのなら「Cの場合」「死刑執行人に罪はない」の章に於ける「軍医殿≠箱男」の関係を明示した論文なり解説を提示すればよいわけです。そのような論文や解説を提示できなければ、それまでです(他にどうすることが出来ますか?)。

 みしまるもも氏は、こちらの記事からの剽窃や、その他のおおくの誤り(箱男に対する不適切な理解)を認めたくなかったのでしょう。だからといって、わたしが語った「軍医殿=箱男」の関係を「軍医殿=元カメラマンの箱男「ぼく」」の関係にすり替えて論じることは、やってはいけない行為です。わたしの「叙述トリック」の指摘を「軍医殿が元カメラマンの箱男「ぼく」ではない」という発見にすり替えて論じることは、やってはいけない行為です。

 参考:「Wikipedia: コメント依頼/みしまるもも_20140528」みしまるもも氏の議論姿勢には問題があるようです(《番外編1》の冒頭に載せましたが、こちらにも載せておきます)。

 「主観だけを根拠に自分は間違っていないと言い張る」
 「誤りを指摘されても決して非を認めない」
 「支離滅裂な主張や反論をする」など、全11項目。

 わたしの真意をご理解いただけたらと思います。

箱男のノートと叙述トリック

 みしまるもも氏は『箱男』における「謎解き」について「はっきり言って究極的にはどうでもいいこと」と総括されています。

 この『箱男』の物語世界に整合性や因果律を求めて、誰が本物だとか贋物だとか、箱男の正体は誰か等という推理小説的な「謎解き」は、はっきり言って究極的にはどうでもいいことなんです。これも多くの論者が結論的に総括していることです。

 プロの評論家で(対処できない問題について)「どうでもいいこと」というような物言いをされる方はいらっしゃらないと思いますが、『箱男』について「謎解き」には深入りしない方向で考えられてきことは、おおよそ事実でしょう。通常の小説の視点から『箱男』を眺めれば、整合性も、因果律も破綻しているようにみえるからです。

 整合性や因果律の破綻したものから、客観的で整合性のある「答」を導くことは出来ません。だからといって『箱男』が「デタラメ」に書かれた小説とも思えない(これはおおくの方がそのように認識されていると思います)。ということは(わたしの理解では)、そこから「不整合の意味」「因果律が破綻していることの意味」が求められる、探究の対象になるということです。その場合「謎解き」の要素を排除することは賢明ではないでしょう。安部公房自身が語っているように『箱男』は「探偵小説の構造」を持っていて、そのような探偵小説の構造から派生した作品だと考えられるからです。「真の筆者」への問いかけは、小説内で直接提示された事柄です(大切な指摘)。

 わたしは、安部公房がなにをどんなふうに考えて『箱男』をつくり上げたかに興味がありました。つまり既存の探偵小説の構造をどのように歪ませ、解体し、いくつもの独創的なアイデアを盛り込み、再構築して『箱男』という前例のない作品が出来ていったのかを知りたかったのです。わたしの興味の中心は、出来上がったチーズケーキを食べて評することではなく、チーズケーキがつくられてゆくプロセスにあるのです。これは、論文や解説を書かれる方とは、その動機や出発点がいくらか違うということです。

 これまでの論文や解説はどちらかといえば「ナンセンスな物語」(反小説)の構造に光を当てる方向で探究されてきたように思います。わたしはそこに「解答不可能な探偵小説」の視点を持ち込んだわけです。わたしはそのような視点の導入が有効だと考えました。その結果はご覧の通りです。これが単純な「謎解き」でないことは、わたしの『箱男』シリーズを読んで下さった方にはご理解していただけると思います(謎解きは《19》で終え、そこから先のことも論じています)。

 これはですね、ささやかな安部公房ファンとしての、既存の論文や解説に対する(こういってよければ)小さな挑戦なのです。わたしはそのようなことが好きなのです。まだ誰も見つけていないものを見つけることが楽しいのです。わたしは「新しい眼差し」を獲得したいわけです。既存の論文や解説からの「二番煎じ」はやりたくないわけです。これは『箱男』だけではなく『鞄』『密会』『デンドロカカリヤ』みなそうです。

 わたしは、わたしの言葉で『箱男』シリーズをゆたかに語ることが出来たと思っています。また語ることを楽しみました。そのことによって、安部公房作品の魅力がよりいっそう皆さまに伝われば、わたしとしては、とてもうれしいのです(わたしは作品を解説したいわけではありません、その魅力をより輝かせたいのです)。ささやかな安部公房ファンとして、これほどの幸せがありますか? そういうことです。

 そしてウィキペディアを編集される方は、そのようなことを理解されて、また大切にして頂きたいわけです。ウィキペディアの基準では、わたしがブログで語ったことは「独自研究」でしょう。それでよいわけです。「独自研究」はウィキペディアに組み込まれるべきではありません。わたしの指摘はそういうことです。

 わたしのブログ(旧ブログ)に頂いたコメントを、あらためてこちらに載せておきます。

 今、読み終えて、改めて最初から読んでみたいと思います。箱男に隠された秘密の解読は、お見事です。後半は、読みながら、肌が泡立ちました。知らぬ間に、2人が殺害されている.(……)解読は、おそらく世界で初めて安部公房文学、箱男の謎に肉迫したものだと思います。(……)

 コメントを下さった方、ありがとうごさいます。

 わたしはブログでの安部公房作品シリーズを止めてしまいましたが、探究そのものを止めたわけではありません。こつこつとやっていて、ちょっとずつすすんでいます(楽しんでいます)。

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