鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《16》 もうひとつの殺人事件

 安部公房『箱男』《15》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 謎解き(裏コードとでも呼ぶべき読み方)を語る前に、『箱男』の各章がどのように構成されているのかを簡単に見ておこう。

箱男』の構成はA-B-A’

 『箱男』はおおくの章(新聞記事や詩を含む)からつくられている。それらを箱男「ぼく」のAパートと「贋医者・軍医殿」のBパートに分けて整理するとA-B-A’というような構成になっていることが分かる。

A――箱男「ぼく」のパート――「ぼくの場合」~「書いてるぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって」
B――贋医者・軍医殿のパート――「供述書」~「ここに再び そして最後の挿入文」
A’――箱男「ぼく」のパート――「Dの場合」~「……………………」

 AとA’のパートでは、箱男「ぼく」の物語が語られ、それら章のあいだにそれとは直接の関係をもたない(でも、なんらかの意味で『箱男』の主題やストーリーの展開との関連をもった)章(挿話など)が差し挟まれている(一部例外として、贋医者と看護婦の章が挿入されている)。

 Aパートの冒頭「ぼくの場合」で、このノートの筆者が元カメラマンの箱男「ぼく」であることが宣言される。しかし、Aパートの最後「書いてるぼくと~」では、はたして「ぼく」がこのノートを本当に書いているのか曖昧な印象になってゆく。

 読者として「?」と思ったところで場面が転換してBパート「供述書」がはじまる(このあたり、お話のすすめ方が巧みですねぇ)。Bパートは贋医者・軍医殿の章で、ここをよく読むと「ぼく」がなぜ贋医者に空気銃で狙撃されたのかが分かるようになっている(詳細は《2》「あらすじ」や《8》「謎解き」を参照)。

 Bパートの最後「ここに再び~」は「ノートの真の筆者」について語られる。でも、それが誰なのかあかされることはない(この章は『箱男』のなかで最もミステリアスな章かもしれない…)。

 A’パートは「Dの場合」(挿話)からはじまり、次の章で箱男「ぼく」が登場する。A’パートは「ぼく」の物語ではあるけれど、これがノートの記述なのか、また現実に起きていることなのか、いまひとつ明確でない印象がある(Aパートのときのように、ノートを書いていることを「ぼく」はことさらに語ったりはしない)。

 (A’パートは、単純に「ぼく」のパートと言えないところがあるように思う。このことについては、あらためて語ってみたい)

 『箱男』は「ぼく」の語り、挿話、新聞記事、供述書、写真、詩などさまざまな要素によってつくられている。それらの各要素が複雑に関係しあい呼応しあって、そこに独特の奥行きを持った小説世界が生まれる。それぞれに異なった表現形式の多彩な要素を、箱男を中心としたひとつの世界としてまとめあげる安部公房の手腕はさすがだと思う(詳細に見てゆくと、くらくらと目眩がしそうなほどにすごい!)。

(『箱男』が断片的な要素(章)から構成されているところは、全体をひとおもいに見わたすことの出来ない箱のなかからの眺めにも似ているかもしれない…)

新聞記事「行き倒れ 十万人の黙殺」

 「裏コードとでも呼ぶべき読み方」の入口として、Aパートに差し挟まれた新聞記事「行き倒れ 十万人の黙殺」に注目してみたい。記事の内容はこんなふう。

 (……)勤め帰りや買い物客が行き交う東京都新宿の駅西口地下通路で、四十歳くらいの浮浪者が柱に寄りかかるようにして死んでいるのを、パトロール中の新宿署員が発見した。

 この男は昼頃から同じ姿勢で坐りつづけていて、新宿署員に発見されるまでの6~7時間のあいだ、多数の通行人が男の近くを通りすぎたにもかかわらず、誰ひとり通報するものがなかったという。

 わたしがはじめて『箱男』を読んだとき、「行き倒れ 十万人の黙殺」がここに差し挟まれている意味が、いまひとつよく分からなかった(たくさんのひとに見て見ぬふりをされ、男が死んでいることに誰も気がつかなかったという興味深い記事ではあっても、箱男との関連がいまひとつ感じられなかった)。

 この新聞記事って、なくてもよくないか? と当時のわたしは思っていたのだった(「行き倒れ 十万人の黙殺」は『箱男』で唯一客観的な「死」の記述ではあるけれど… 軍医殿の死は《11》で指摘したように、一人称で書かれているため曖昧な印象となっている)。

 ではここで、新聞記事「行き倒れ 十万人の黙殺」について、ちょっとした事実をご紹介しよう。記事では男の容姿が丁寧に描写されている。

 同署の調べによると、男は身長一メートル六三、中肉。花模様の長袖シャツに作業用長靴をはき、髪はボサボサの浮浪者風。

 なるほど…… では、前回ご紹介した「箱男 予告編」で犠牲になった男の描写を引用してみよう。

 人造皮のジャンパーの腋の下が裂け、裾がめくれて、小さな花模様のシャツが覗いている。

 「花模様のシャツ」というささやかな一致ではありますが…… (死者にはストライブやボーダーより、花模様が似合うのかもしれない…)

わたしの仮説 もうひとつの殺人事件

 「箱男 予告編」では、箱男か襲撃者のどちらかが殺害されている。その殺害された方を仮に箱男だったとすると、襲撃者は箱男になりすまして逃走したことになる(「なりすまし」は『箱男』を構成するモチーフのひとつになっている)。

 『箱男』でも同じことが起きたとは考えられないだろうか。元カメラマンの箱男「ぼく」は、この物語のどこかの時点で殺害され、その犯人が「ぼく」になりすましてノートを書いていたとしたらどうだろう…… (探偵小説では、狡猾な犯人が殺害した人物をさもまだ生きているかのように偽装することがよくあるけれど…)

 「行き倒れ 十万人の黙殺」を箱男「ぼく」の死の「ほのめかし」(暗示・メタファー)としてこの小説を読むことは可能だろうか? (新聞記事の男が箱男だということではありません)

 「ぼく」が殺害されたという記述は『箱男』のどこにもない。だからと言って、このノートを書いているのが、元カメラマンの箱男「ぼく」であることの確かさはどのように保証されるのだろう……

 Aパートのいちばん最後に語られた「ぼく」の言葉を引用してこの記事を終えよう。

 ぼくが、ぼくでないかもしれないというのに、そうまでしてぼくを生きのびさせる必要がどこにあるのだろう。(……)ぼくがまだ生きのびているという証拠は、どこにもないのである。

 ここで語られている「ぼく」という言葉も、箱男の箱と同じように、その中身を知ることは出来ない……

 次回は小説のデザインの視点から、この仮説の可能性を探ってみよう。

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