安部公房 「箱男」《17》 小説のデザイン
安部公房『箱男』《16》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。
わたしの仮説について、ひきつづき語ってゆこう。
小説のデザイン
安部公房の小説のデザイン(構成)には定評がある(皆さんも、そう思われるでしょ)。『箱男』の冒頭「ぼくの場合」から「約束は履行され~」までがどのようにデザインされているかをちょっと見てみよう。各章を順番に書き出してみるとこのような並びになっている。
- 「ぼくの場合」
- 「箱の製法」
- 「たとえばAの場合」
- 「安全装置をとりあえず」
- (挿入された写真とそれに添えられた短い文章)
- 「表紙裏に貼付した証拠写真についての二、三の補足」
- 「行き倒れ 十万人の黙殺」
- 「それから何度かぼくは居眠りをした」
- 「約束は履行され、箱の代金五万円といっしょに、一通の手紙が橋の上から投げ落された。つい五分ほど前のことである。その手紙をここに貼付しておく」
小説のデザインからみた、各章の簡単なご説明。
[1]――このノートを書いているのが箱男の「ぼく」であることが宣言される。ほんの短い章ではあるけれど『箱男』のなかでもっとも大切な章のひとつかもしれない。
[2]~[3]――箱男がどういうものであるかについて語られている。未知の存在である箱男を具体的に描写(解説)することで、読者はリアリティのある箱男を思い描くことが出来るようになる(箱男に存在感を与える章といえるかもしれない)。
[4]――箱男「ぼく」が現在おかれている状況が語られる。「ぼく」は橋の下でノートを書きつつ、箱の取引のために買い手を待っている。
[5]――[4]と[6]は時間の流れが途切れているので、写真を入れるとしたらここになるだろう。
[6]――[4]を「現在」とすると「過去」の出来事についての記述になる(つまり回想)。「ぼく」が空気銃で狙撃されたことや、どのようにして箱に買い手がついたのかが語られる。この章は、病院での「ぼく」と看護婦の会話で終えられている。
[7]――行き倒れになった浮浪者の新聞記事。駅の地下通路で死んでいたにもかかわらず、その死に気がつくひとはいなかった。
[8]――「贋魚」のお話。箱男とは直接の関係をもたない挿話。夢から覚める前に死んでしまった贋魚は「死んだ後までも、まだ夢を見つづけなければならなかった」という。
[9]――時間の流れからは[4]のつづきになる。橋の下で待っていた「ぼく」に、代金と手紙が投げ落とされた。
簡単にまとめるとこんな感じかな……
このなかで[7]「行き倒れ」の新聞記事と[8]「贋魚」のお話は、メインの箱男のストーリーと直接の関係をもたない。《16》で『箱男』の構成をA-B-A’と表記したけれど、Aパートではこのふたつの章だけが箱男と直接の関係を持っていない。
では安部公房はどのような意図で、これらの章を差し挟んだのだろう(なんとなく気分で入れてみた?)。[7]と[8]に共通するイメージを探せば、それは「死」ということになるけれど……
このふたつの章にはどんな意図が隠されているのだろう?
わたしの仮説は、この物語のどこかの時点で元カメラマンの箱男「ぼく」は殺害され、その犯人が「ぼく」になりすましてノートを書いたというもの。この小説のトリックがもしそうであるなら、このふたつの章がここに差し挟まれていることの必然性も説明がつくように思う(探偵小説の視点からの考察)。
[7]「行き倒れ 十万人の黙殺」の男には、箱から出た箱男(というのもおかしな言い方だけれど)のイメージ(ボサボサの髪やゴム長靴をはいているところなど)がある。男は雑踏のなかで、おおくのひとにそれと気づかれることなく死んでいた。『箱男』を読んでいる読者もノートの書き手である元カメラマンの「ぼく」が死んでいることに気がつかない……
浮浪者の死――浮浪者には箱から出た箱男のイメージがある。元カメラマンの「ぼく」の死を暗示。
通行人は男が死んでいることに気がつかない――『箱男』の読者は、元カメラマンの「ぼく」が死んでいることに気がつかない。
ということですね。
[8]「贋魚」のお話は、死んでも夢を見つづける(死によっても終わらない夢)というのがひとつのモチーフになっている(詳細は《6》を参照)。これを殺害された元カメラマンの「ぼく」にあてはめてみると、死んでも書きつづけられる箱男のノートということになりはしないだろうか。贋魚の夢を見ている男が夢に閉じ込められてしまうのと同じように、元カメラマンの「ぼく」もノートの記述のなかに閉じ込められてしまう…… こちらもまとめておこう。
死んでも終わらない贋魚の夢――元カメラマンの「ぼく」が死んでも書きつづけられる箱男のノート。
男は夢に閉じ込められる――元カメラマンの「ぼく」は箱男のノートに閉じ込められる。
古典的探偵小説では、伝承や神話をモチーフにして犯行がおこなわれたりもする。ここでの犯人は、贋魚のお話をなぞるように死者が見つづける夢として、死んだ「ぼく」になりすましてノートを記述しつづけたのかもしれない。
このノートが書きつづけられている限り、たとえそれがどんな内容であっても「ぼく」は箱男として生きていることになる! 「行き倒れ 十万人の黙殺」のように、誰も「ぼく」の死に気がつかない!
わたしの仮説の「確かさ」はどれくらいのものだろう?
箱男のノートが、このようなトリックのもとに書かれたものだとすると、その記述のおおくは元カメラマンの箱男「ぼく」が書いたものではなく、「ぼく」になりすました箱男(犯人)が書いたものということになる。
このノートには、深夜の病院を訪れた「ぼく」が、そこに贋箱男を目撃するというようなエピソードも書かれている。わたしの仮説によると(いつ「ぼく」が殺害されたかにもよるのだけれど)、これらの事柄も実際にあったことではなく、犯人がそのように空想して(想像して)ノートに書き綴ったということになってしまう……
本当にそうなの? (わたしが導いた仮説ではあるけれど、にわかには信じがたくもあるよ…)
《13》で引用した『箱男』のなかでいちばんミステリアスな章「ここに再び そして最後の挿入文」をいまいちど引用しよう。
君には信じられないかもしれないが、これまで書いてきたことに、まったく嘘はない。想像の産物ではあっても、嘘ではない。
ここでの犯人は元カメラマンの「ぼく」を殺害し、「ぼく」になりすましている。「ぼく」は箱男なのだから、その「ぼく」になりすました犯人もまた箱男ということになる。箱男であるからには、箱男の経験やその感覚においても共通したものを持っていることだろう(資質として「ぼく」と同じものを持っていたからこそ、この犯人もまた箱男になることが出来たといえるかもしれない…)。
この犯人が箱男のノートを書いていたとして、実際に起きたこと(あるいは実際に経験したこと)をノートに書いているわけではないので、それらの記述は「想像の産物」ということになる。でも、箱男としての思考や感性は共通しているのだから、そこに書かれていることはけっして「嘘」ではない。箱男としての真実を語っている!
はじめて読んだときにはまったく意味不明だった「ここに再び~」も、このような仮説のもとに読んでみると、なんとなくつじつまがあっているように思えてきた…… 「君には信じられないかもしれないが」わたしは信じることにしよう! (皆さんはどのように思われますか?)
次回はこの仮説について、さらに語ってゆこう。
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