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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「鞄」《10》 都市と開かれた無限

 安部公房『鞄』《9》からのつづき(1回目と目次はこちら)。

 『燃えつきた地図』について(ちょっと寄り道気分で)語ってみよう。

地図の消失

 『燃えつきた地図』は、主人公の「ぼく」が興信所の雇われ探偵として人生をおくるなかで育ててきたの自分の地図が、ある日突然、失効してしまう物語として読めると思う。

 物語がはじまってまもない頃の「ぼく」は、それなりに経験を積んだ(有能な)探偵として失踪人の捜索を開始する。でも、物語がすすんでゆくにしたがい、こんなはずでは…… というような展開になり(安部公房、いつものパターン)、関係者が自殺したことを受けて、「ぼく」は興信所の上司に辞表を提出する(自主的な辞表の提出ではあるけれど、実質的にはクビということです…)。

 ここで終わればよくある探偵の物語のひとつかもしれない。でも、物語はさらにつづく。「ぼく」は探偵をやめると同時にこの案件からも、すぐに身を引くべきだったのだろう。「ぼく」は理由も分からないまま突然暴行をうけ、(たぶん)それが原因で記憶を失ってしまう。

 探偵を失職したまでなら既存の「ぼく」の地図にいくらかの変更を施すことで、そのまま地図を使いつづけることも出来たと思う。でも、自分の名前も、自分の帰る家も見失ってしまっては、どうすることも出来ない。「ぼく」がそれまで愛用していた地図は、もうどこにも存在しない。「ぼく」の地図は消失して(燃えつきて)しまった……

都市と地図の関係

 「ぼく」は消失した地図の復元を図ろうとする。手もとに残された電話番号に公衆電話から電話をかけると、さいわいなことに「ぼく」を知っていると思われる女性と連絡がついた。公衆電話のところまで迎えに来てくれるという(これでひと安心?)。

 「ぼく」は女性を待ちながらこんなふうに考える。

 医者なら、ぼくが失ったのは、カーブの向うなどではなく、記憶なのだと主張したがることだろう。誰がそんなことを信用するものか。誰だって、どんな健康な人間だって、自分の知っている場所以外のことなど、知っているわけがないのだ。誰だって、今のぼくと同じように、狭い既知の世界に閉じ込められていることに変わりはないのだ。

 記憶を失った「ぼく」の既知の場所は「坂のカーブの手前」「地下鉄の駅」「コーヒー店」の3カ所。その点がかたちづくる三角形(世界)はとても狭い。でも…… 「この三角形が、十角形になったところで、何処がどう違うというのだ」それは数の問題にすぎず、本質的なことではないのだと「ぼく」は考える。

 もし、その十角形が、決して開かれた無限に通じる地図ではないことを、自覚したとしたら……救助を求める電話に応じて、やって来る、救いの主が、自分の地図を省略だらけの略図にすぎないと自覚させる、地図の外からの使いだったとしたら……

 「開かれた無限に通じる地図」は《9》で引用した題辞「都会――閉ざされた無限」と呼応しているだろうか。『燃えつきた地図』のエピグラフ題辞)を引用しよう。

  都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。
 だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。

 エピグラフの簡単なご説明(わたしの理解です…)。

 都市(都会)は面積としては有限だけれど、そのなかを歩く行為(移動する行為)は無限につづけられる。都市のすべての区画は番地(住所)で管理されている。ということは、君が都市のどこにいても君の所在は××町××番地というふうに記述できる。

 君が君の望む場所やそこにゆくための道を見失っても(思い描けなくても)、君は君の手にした地図の番地の割りふられたその一点に明確に位置づけられている。だから君は迷うことは出来ない(こういう状況ってどうなのだろう… あまりうれしくないような…)。

「閉ざされた無限」のなかの「開かれた無限」のための地図

 「ぼく」の語る「開かれた無限」とはなんだろう(皆さんは、この言葉からどのような地図のイメージを思い浮かべますか?)。

 具体的に考えてみよう。地図に記入された既知の場所が、A~E地点の5ヶ所だとしよう。その5ヶ所を自由に行ったり来たり出来る。ここでA→B→C→D→E→A→B…… というルートを設定する。A~Eをぐるぐると回りつづけるというパターンですね。いくらでも回りつづけられるので「無限」ではあるけれど、イメージとして、それは「閉じた無限」のように思われる。

 「閉じた無限」を「開かれた無限」にするためにはどうすればよいだろう。A→B→C…… という道順を変化させてみてはどうだろう。5ヶ所の順列組み合わせで道順は増える。でも結局は道順の数が増えただけで、その数のなかで閉じていることにかわりはない(そうでしょ)。

 ではA~E以外の場所をつけ加えるというのはどうだろう。そこにFやGのあらたな場所をつけ加えていくことも、もちろん可能だろう。でも都市は有限の面積なので(番地は有限の個数しかないので)、これも数の問題にすぎない(「三角形が、十角形になったところで、何処がどう違うというのだ」ということですね)。

 う~ん、ここから先どのように考えてゆけばよいだろう…… ここで発想の転換が必要になる。A→B→C→D→E→Aと歩いてきたとき、はじめの「A」とB~Eを通過した後の「A」は同じだろうか。物理的な場所としては同一だろう。でも、地図に書き込まれるその場所の意味=言葉はどうだろう。いつも必ず同じといえるだろうか? もしB~Eを通過する過程で記憶を失ってしまったとしたら……

 A地点を通学(あるいは通勤)に使う駅としよう。地図にはA=「通学のための駅」と記入されてる。それは記憶を失っても「通学のための駅」だろうか? (記憶を失ったとき、わたしたちはAになにを感じ、なにを見るのだろう…)記憶を失うというのは極端な出来事かもしれない。恋人が出来て、その待ち合わせ場所にAを利用するようになったとしよう。それでもA=「通学のための駅」だろうか?

 記憶を失った「ぼく」は、自分の地図が「省略だらけの略図にすぎない」ものになることを怖れている。Aという場所は、ひとにとって無限の情報と意味を含んでいる。でも、日頃のわたしたちは、そのようなことをほとんど意識しない。A=「通学のための駅」というような「省略だらけの略図」として認識している(その認識は自分のものというより、社会や世間によって与えられたものかも知れない…)(エピグラフで語られた「番地」は、国家が土地を効率的に管理するために与えたものだろう)。

 そのように簡略化されて固定された意味=言葉によって描かれた地図が「閉じた無限」の地図なのではないだろうか。君は地図のなかの好きな場所にゆくことが出来る。でも君の地図の意味=言葉は閉じている。「閉じた無限」のなかの好きなところにゆける君は自由だろうか?

 ひとは対象(場所)にさまざまな意味を見つけることが出来る。ひとには対象から無限に意味を生成する能力がある。君の地図の意味=言葉は略図でもなければ、固定されてもいない。君の描く地図が君の自由の意味=言葉になる。君は「開かれた無限」の地図のなかにいる。それは素敵なことではないだろうか(皆さんはどのように思われますか?)。

薄っぺらな猫の名前

 この物語の結末は「ぼく」が「薄っぺらな猫」に名前をつけようとするところで終わる(本文は《9》を参照)。

 「薄っぺらな猫」は、記憶=地図を失った「ぼく」が、あらたにこの世界(都市)に見つけた意味=言葉なのだろう。この「薄っぺらな猫」は、ただ車に何度も轢かれて紙のように薄くなった猫というだけではなく、そこには既存の社会のなかでぺしゃんこにされてしまった、興信所の雇われ探偵をしていた頃の「ぼく」が二重写しになってはいないだろうか(わたしには、そのように思われる)。

 既存の社会の意味=言葉から離脱した(失踪した)「ぼく」には、あの頃には見えていなかったもうひとりの「ぼく」の姿が見えている。元上司の語る「罠だらけ」の探偵の世界で、訳も分からないまま紙のように薄くつぶされてしまった「ぼく」に、いまの「ぼく」は(無意識のうちに)名前をつけようとする。

 ひとはひとつの状況が終えられたときに、そのことの意味を知るのだろう…… 「薄っぺらな猫」は紙のように薄くなることで、都市(地面)の一部になる。でも、その場所に番地は割りふられていない(「薄っぺらな猫」は番地=国家の管理から独立した場所を所有している…)。「ぼく」はそこにオリジナルな意味=名前を与えようとする。「ぼく」の自由はそのようにしてはじめられる。

 安部公房は『燃えつきた地図』単行本の函の「著者の言葉」のなかで「あえて希望を語りはしなかったが、しかし絶望を語ったわけでもない」と語っている。

 次回は『鞄』と『燃えつきた地図』ついて、さらに語ろう。

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