安部公房 「鞄」《11》 失踪者の眼差しとクレオール
安部公房『鞄』《10》からのつづき(1回目と目次はこちら)。
『鞄』と『燃えつきた地図』について自由に語ってみよう。
失踪者の眼差し
『鞄』と『燃えつきた地図』は物語の構造がよく似ている。どちらの主人公も当初の目的を達成すること(『鞄』では事務所に戻ること、『燃えつきた地図』では失踪者を見つけ出すこと)が出来ず、やがて都市のなかで失踪者になってしまう。
(『燃えつきた地図』では、巧みなプロットが主人公を失踪者へと導くけれど、『鞄』では主人公の手にした不思議な鞄がその役割を担っているように思われる)
安部公房は都市のイメージを背景に、失踪のモチーフを繰り返し描いてきた。座談会「“燃えつきた地図”をめぐって」では、佐々木基一とのあいだにつぎのような会話が交わされている。
佐々木 まあ、都市に住んでいる連中は失踪者だね。われわれみんな……
安部 ただ失踪していないつもりだけで……(笑)
こういう会話って、なんかいいですねぇ~
安部公房は『燃えつきた地図』の結末について、「記憶喪失に陥ったという形をとっているけれども、本当は記憶喪失じゃないです。つまり、本当に目を開いてみたら、こんなものであるはずなんだ。誰もがね」と語る。都市の日常のなかでは(実際には失踪していなくても)、誰もが失踪者の眼差しを持つことが出来るらしい。
でもどうして? 安部公房はインタビュー「国家からの失踪」で「(都市を舞台にした)ぼくの小説では、固有名詞は意味を持たない」と語る。都市は名前を持たないものたち(匿名性)であふれている。
固有名詞が意味を持つ世界では、すべての対象に固有名詞が割りふられてゆく。固有名詞が世界を固定することで、安定した(強固な)共同体がかたちづくられる(ひとはそのなかに安住することが出来る)。巨大で複雑な構造を持つ都市では、その多様性、流動性から、固有名詞によって世界が固定されていない(世界を固定することが出来ない)。だから、そこでは名前を持たないものたちへの自由な眼差し(失踪者の眼差し)が可能になるのだと思う。
(小さな集落では内部に留まったまま失踪者の眼差しを持つことは出来ないけれど、都市では都市の内部で失踪者の眼差しを持つことが出来る…)
アプリオリにある拠りどころへの疑惑
「失踪はいずれ何らかの共同体からの失踪だと思う」と語る安部公房の共同体嫌いは有名だろうか。そのことに関係した安部公房と大江健三郎のちょっとしたエピソードをご紹介しよう。
安部公房は大江健三郎『万延元年のフットボール』の書評を書いている。その内容について、後年大江健三郎は安部公房との対談でつぎのように語っている。
『万延元年のフットボール』を出したとき、安部さんは認めてくださった上で、しかし大江が共同体というようなものを信じているとするならば、自分の敵だと警告しておくと書かれた。
その書評は「怖い穴ぼこ――大江健三郎『万延元年のフットボール』」のことだと思うけれど、たしかにそのようなことが語られている。いくらか引用してみよう。
歴史のすべてが、その一族の血を通じて現われ、完結していくという、この限定性は何を意味しているのだろう。アプリオリに存在している、この〈根所〉は、歴史の本質というよりは、歴史のパラドックスを感じさせるものだ。この〈根所〉を、もし主人公と同じ視点で固定させてしまうとすれば、歴史はたちまち弁証法を否定して、神話へと傾斜して行かざるを得ない。
(……)
もし『万延元年のフットボール』が単なる神話であり、結末での主人公の回生が、〈根所〉の絶対化を意味するものだとしたら、ぼくは大江君の微笑みを、はっきり挑戦状として受取らねばならないことになるわけだが……
対談での安部公房は「そんなひどいこと言った記憶はないけどな」と語っていて、まあたしかにひどい語り口ではないけれど…… 共同体と神話は分かちがたく結びついている。共同体は神話を求め、神話は共同体を形成する。「アプリオリに存在している、この〈根所〉」のあやうさを安部公房は指摘する。
安部公房はインタビュー「国家からの失踪」で「ぼくには、人間は“拠りどころ”を持たねばならないという考え方に対する疑惑がある。自分で足がかりをつくるのじゃなしに、アプリオリにある拠りどころを受け身的に持つこと、例えば故郷と民族とか、それへの疑惑がある」と語る。
アプリオリにある人間の拠りどころについて、安部公房はなぜ執拗に警戒し、拒絶するのだろう。たぶんそれは創造性に関係したことだと思う。
伝統からの拒絶と根源的な誕生
晩年の安部公房はクレオールに夢中になっていた(言語の問題と文学作品とが不可分に結びついていることに注目していた)。
「カフカはつねに僕をつまずきから救ってくれる水先案内人です」と語ったフランツ・カフカについて、安部公房はエッセイ「異文化の遭遇」でこんなふうに語っている。
多数派がチェコ語を話しているボヘミアで、少数支配民族のドイツ語を生活と保身のために父親から強いられたユダヤ人のカフカ。まさに都市に穿たれた内なる辺境の悲劇である。それでもカフカはシオニズム以外の道を選ぶことができた。いささか非学問的な拡大解釈になるが、内的なクレオール文学の誕生とみなしたい。
また、養老孟司との対談「文明のキーワード」では、カフカの「都市に穿たれた内なる辺境の悲劇」が伝統からの拒絶として展開されている。
フランツ・カフカというのは、僕は本当にクレオール作家じゃないかと思うんですよ。完全に伝統を拒絶したんじゃなくて、伝統から拒絶されたというか、伝統がもう彼を受け入れてくれなかった、孤絶感といいますか、そういうところでやっぱり彼の文学が生まれたと思いますよね。
なるほど…… クレオールが発生するにはふたつの条件が必要だという。
- それぞれが文化圏の伝統を持たないこと。
- 伝統から追放されてしまったという意識を持つこと。
安部公房は、伝統主義的なものがわたしたちの価値体系のなかでおおきくなると文化が停滞してしまうと指摘する。
出来ればいったん伝統からの追放者になって、自分をそこに置いて、その上で、自分自身の周辺に、つまり一番根源的な誕生ですね。文化というものは、僕は、伝統よりも各瞬間の誕生というものが大事なんだと思うんです。
(……)
ごく少数であっても、クレオール、つまり反伝統の姿勢を持ち続ける人もいるし、これは社会から脱落するかもしれないけれど、ある人は次の本当の新しい文化の形成者になるかもしれない。
文化は各瞬間の誕生であり、伝統を拠りどころにしない根源的な誕生のイメージは、いつもわたしのこころを勇気づけてくれる(ありがとう、安部公房)。
クレオールの魂を鞄に入れた失踪者
『鞄』の主人公は手にした不思議な鞄に導かれて、これからどこにゆくのだろう? あの鞄のなかには、なにが収められているのだろう? あるいは、そこに入っていたのは「クレオールの魂」かもしれない…… ふと、そんなことを思った。
安部公房がその晩年に到達したクレオールの夢へと、いまもクレオールの魂の入ったあの鞄を(それとは知らずに)手にして歩きつづけているのだろうか。
都市の失踪者は伝統からの追放者のイメージを伴って、わたしたちの根源的な誕生を呼び覚ます……
今回は飛び石を渡るように自由に語ってみた(ちょっと自由に語りすぎたかもしれない…)。
次回は『鞄』の物語と創作について語ろう。
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