鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「鞄」《2》 構造のなかの自由

 安部公房『鞄』《1》からのつづき。

 前回は、安部公房の『鞄』を「創作」と結びつけて語ってみた。あまり説明的であってはいけないと思い、あんなふうに語ってみたけれど、やや分かりにくかっただろうか。

意識と無意識の関係

 意識的なこと(思考)と無意識的なこと(直感や感覚)の関係(構造)というのは、なかなか面白い。あれこれ考えて選んだはずなのに、いまひとつしっくりこないということは、よくあることだと思う。そうこうしているうちに、ある日突然、自分の求めていたものがふと分かったりする。こういうときの直感による選択は、外れることがあまりない。

 直感や感覚的なものは論理的な思考にくらべて、より無意識の領域に近いところにある(と思う)。直感や感覚には迷いがない。筋道をたてて説明することができなくでも、どういうわけか確信のようなものがある。こころの自由は、意識の領域にあるのではなく、無意識の領域にある。そんなふうにいえるかもしれない。

 参考として「安部公房スタジオ通信6」から『S・カルマ氏の犯罪』が書かれた過程を紹介しておこう。

 『S・カルマ氏の犯罪』は、小説に対する僕の姿勢を大きく変えてくれた作品である。構想が熟したと思ったとたん、とつぜん自由になった感じがした。ペンが躍り出し、四十時間ほど一睡もせずに一気に書き上げることが出来た。

 ここでの安部公房は(小説を自由に構想しているときに自由を感じるのではなく)、構想が熟したと思った(直感した)瞬間に自由になった感じがしたと語っている。いったん躍り出したペンは、迷うことなく一気に作品を書き上げる。ここに安部公房の創作に於ける自由があると思う。

無意識の領域での出来事

 ここに出てくる鞄は、教科書的(?)には人間を規制(制約)するもの、つまり法律、国家、宗教、常識、社会、家族、人間関係などの象徴ということらしい。では、それらを意識と無意識の構造のなかに組み込むと、どうなるだろう。ちょっとやってみよう。 

 小説の最後のところの鞄を、例えば国家、宗教に言いかえてみると……

 「べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄(国家、宗教)が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、何処までもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった」

 となり、これを書いてあるとおり、そのまま理解すると……

 「鞄(国家、宗教)が私を導いてくれている」と、「私」はなんの疑問もなく思っている。国家、宗教の言うとおり、どこまでも歩きつづけることに「私」は自由を感じている。

 ということになる。

 きみ、大丈夫? と思わず言いたくなってくる。これを読んで、わたしの頭に思い浮かんでくるのは「洗脳」とか「マインドコントロール」という言葉だったりするけれど…… (皆さんはどうですか?) 「私」のこころは無意識の領域まで、国家や宗教に侵食されてしまったのだろうか……

 《1》のときとは違って、怖いお話になってきた……

 わたしがネット上でいくつか読んでみた『鞄』についての解説は、どれも意識の領域だけでこの小説を説明しようとしているみたいだった。意識の領域だけでは「制約されること」と「自由」を結びつけるのはむつかしいと思うのだけれど…… (どうだろう?)

鞄は本当に「常識」や「社会」の象徴なのだろうか?

 ※ 以下の文章は2011年3月4日に追記したものです。

 この鞄を、一般に言われているような人を規制する「常識」や「社会」の象徴として考えた場合、お話としてあきらかに矛盾することに(いまさらながら)気がついた。そのことについて語ってみよう。

 鞄が「常識」や「社会」の象徴だとすると、それは人をどのように規制するのだろう? 当然、常識人、社会人として、その人が行動するように規制することになるだろう(そうよね)。つまり……

 もう事務所には戻りたくないなあ…… と「私」が思ったとしても、その鞄を手にしていると、自動的(?)に自分の事務所へと連れ戻されるようなことになる(そのように規制されなければおかしい… それが常識であり、社会人というもの…)。

 でも、この物語は、そのようになっていない(ここでの「私」は、鞄を手にしたために事務所に戻れなくなってしまう…)。ということは、この鞄を「常識」や「社会」の象徴と考えるのは、どうかなぁ~と思う(無理がありはしないか?)。

 わたしはこの記事で『鞄』を意識、無意識の関係で見てきた。鞄を持って出かけた 「私」は、はじめのうち事務所に戻ろうとがんばっている。その意味では「私」は常識人であり、一般的な社会人といっていいと思う。でも鞄(無意識)は、そんな「私」を事務所から遠ざける力、事務所から失踪しようとする力としてはたらく。

 ということは、この鞄は「事務所には戻りたくないなぁ~ どこか遠くに行きたいなぁ~」という「私」の無意識的な何か(失踪願望や放浪願望など)のあらわれと考えることも出来る。その場合、それはあくまでも無意識の領域のことなので「私」が意識としてそのように思っているわけではない、というところがポイントになる(心理学では、そのようなこころの仕組みを抑圧といいます)。

 つまり、無意識の領域で抑圧されていたもの(失踪願望)を、意識(事務所に戻ろうという考え)との葛藤の後に受け入れ、行動するのだから、そこに自由を感じるのは当然であり、自然なことであるともいえる。

 うん? なにやら世間一般で言われていることとは正反対の結論になってきましたが…… (抑圧につていは理解がむつかしいので、詳しくは書籍やネットの検索などを参照して下さい…)

 このことと関係していると思われる安部公房のインタビュー「国家からの失踪」を引用しよう(このインタビューがおこなわれたのは1967年、『鞄』は1972に発表されています)。

 社会が自由な失踪を認め、これを愚かしい行為ではないようにしてやるのが本当だと思うんです。(……)ぼくは、家出、失踪というのは非常に素朴なあこがれ、健全なもので突き詰めた夢の実体化だというふうに考えているんですよ、国家、つまり人間の住んでいる場所、国家のワク[常識や社会の固定観念]でしか考えられない人間が、ある日そのタガをはずして夢を実体化するようなものですよ。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 安部公房らしいインタビューだなあと思う(ここでは、その時代背景から国家を中心に語られていますが、わたしが補足したような一般的な視点でも読んでいただけたらと思います)。

 ここでの安部公房は、失踪(家出)を肯定的なイメージ(素朴なあこがれ)として語っている。それを『鞄』の結末にあてはめてみると、そこに見えてくるのは肯定的な「自由な失踪」のイメージということになる。つまり、鞄は「私」にとって「そのタガをはずして夢を実体化する」ためのアイテムだったのだろう、わたしにはそのように思われる。

 (このことは《1》で語った創作との関係においても符合してくれる。創作もまた、常識や固定観念から自由になり「夢(作品)を実体化する」作業にほかならない)

わたしにとっての『鞄』

 わたしがこの記事の《1》を書いたのが2010年7月10日、《2》が2010年9月5日、そしていま、追記を書き終えて『鞄』の記事が完成した(2011年3月4日)。わたしは、わたしの手にした鞄(直感)に導かれ、この結論にたどり着くことができた。わたしはそのことをとてもうれしく思う。

 創作も、自由も、失踪(素朴なあこがれ)も、みな『鞄』がわたしに教えてくれた。ささやかな記事ではありますが、これをわたしの敬愛する安部公房に捧げたいと思います。

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