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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「鞄」《9》 続・変奏

 安部公房『鞄』《8》からのつづき(1回目と目次はこちら)。

 もうひとつの『鞄』の物語から見えてきたものについて語ってみよう。

そのひとが求めていたもの

 《8》で語った物語の他に、それと似たような展開の物語をいくつかつくってみた。そこから分かってきたことがある。『鞄』(変奏)の主人公たちはみな、はじめの目的が変更されるような体験をしていた。「私」は「川面のきらきら」を体験することで、学校へ行くという目的が変更された。

 体験によって、ひとの心理は変化する。そこでの体験は、なにか特別なものである必要はない。日常のありふれた光景や出来事であってもよい。それがそのひとにとって大切に思えるもの、切実に求めていたものなら、それを契機にしてひとの心理はかわってゆく。

 ひとは求めているものを、いつも明確に意識しているかというとそうともかぎらない。求めているものに出会って、はじめてそれと気づくこともある。求めていたものとの出会が、鞄との関係を対立的なものから肯定的なものへと反転させる。鞄が「私」を導いてくれている…… 鞄に導かれているという感覚が「私」のなかに生まれる。

 参考:ひとは偶然にも思えるもののなかに一度かぎりの真実を見つけることが出来る。物語を生きるとは、そういうことだと思う。

「私」の体験したこと

 では『鞄』(オリジナル)の場合はどうだろう。[2-2][2-3]をもういちど読みなおしてみよう。

 [2-2](……)そのまま事務所に引返すつもりだったが、どうもうまくいかない。いくら道順を思い浮かべてみても、ふだんはまるで意識しなかった、坂や石段にさえぎられ、ずたずたに寸断されて使い物にならないのだ。やむを得ず、とにかく歩ける方向に歩いてみるしかなかった。そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった。

 [2-3]べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、何処までもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。

 わたしは《5》で不自由[2-2]と自由[2-3]の境界は行間なので「何も書かれていない」と語っている。でも、いまのわたしには、あの頃のわたしには見えていなかったものが見えている(ああ、見えている…)。

 「いくら道順を思い浮かべてみても、(……)坂や石段にさえぎられ、ずたずたに寸断されて使い物にならないのだ」と「私」は語っている。これは、「私」がそれまで思い描いていた地図が役に立たなくなった(既存の地図が意味を失った)ことの体験ではないのか。

 「そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった」と「私」は語っている。これは、はじめて訪れた街を歩く(知らない街を歩く)という体験ではないのか。

 このふたつの体験は「私」が(潜在的に)求めていたことではないのか。だからこそ、それを体験したとき(それが実現したとき)、事務所に戻るという目的が変更され、鞄との関係が対立的なものから肯定的なものへと反転したのではないのか。

 気がついてみればまったく単純なことだと思う(そのような当たり前のことになぜ気がつかなかったのだろう…)。

 (わたしは《2》で『鞄』の結末を「私」の失踪願望によるものではないかと語った。失踪願望という抽象的な概念だったものが、テキストのなかから「既存の地図が意味を失う」「知らない街を歩く」という具体的なイメージとなって立ち現れてきた!)

ずたずたに寸断された地図

 『鞄』に「地図」という言葉は出てこない。「道順」から「地図」のイメージが見えてきたとき、わたしのなかで「いくら道順を思い浮かべてみても(……)ずたずたに寸断されて使い物にならないのだ」が「ずたずたに寸断された地図」と読み換えられた(わたしにとっての小さな閃きだった)。わたしはこれとよく似たタイトルの作品を知っている……

 ずたずたに寸断された地図 → 燃えつきた地図

 『鞄』の結末は『燃えつきた地図』の結末によく似ている(これまで何度となく読み返してきた作品のはずなのに… ああ、わたしはバカだ…)。

 『燃えつきた地図』は探偵である「ぼく」が失踪した男を探す物語として展開される。失踪者の追跡は困難なものだった。真相に少しも近づくことなく、手がかりだけがつぎつぎに失われていった。物語の結末で「ぼく」は記憶を失ってしまう。記憶を失うことで、それまでの「知っていた街」が「知らない街」へと変貌する。

 『燃えつきた地図』の結末を引用しよう。

 (……)理解出来ない地図をたよりに、歩き出す。もしかすると、彼女のところに辿り着くために……彼女とは反対の方角に、歩き出す。
 過去への通路を探すのは、もうよそう。手書きのメモをたよりに、電話をかけたりするのは、もう沢山だ。車の流れに、妙なよどみがあり、見ると轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだった。無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑みが頬を融かし、顔をほころばせる。

 『燃えつきた地図』いいですねぇ~ (こちらの作品については、いつかじっくりと語ってみたい…)文庫本のドナルド・キーン氏の解説では、この結末が次のように語られている。

 完全に迷ってしまった筈の探偵は、実は迷っていない。思い切って、「過去への通路を探すのは、もうよそう」と決心し、自由になる。

 キーン氏の解説も素晴らしい…… (素敵…)

 「理解出来ない地図」は地図というより、むしろ白紙に近いものかもしれない。そこには自分の言葉やイメージを書き込むための余白がたっぷりと残されている(既存の地図は既におおくの言葉やイメージで埋めつくされている…)。「過去への通路」と決別した「ぼく」に、自分ためのオリジナルな地図をつくる楽しみと自由が与えられる。

 次回は『燃えつきた地図』について語ろう。

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