中原中也 「夏の夜の博覧会は、哀しからずや」
今日のお天気は、うららかな晴れ。
風はいくぶん冷たいけれど、明るい太陽が素敵……
気分の中原中也、その2回目(1回目はこちら)。今回は、彼の最晩年、29歳のときに書かれた作品「夏の夜の博覧会は、哀しからずや」について語ってみよう。
『中原中也詩集』(角川文庫)からの引用。はじまりは、こんなふう……
夏の夜の博覧会は、哀しからずや
雨ちよと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の博覧会は、哀しからずや
この詩は〈1〉と〈2〉で構成されている。〈1〉は全部で14行だけれど、そのなかで「哀しからずや(かなしからずや)」が、8回も出てくる。そんなに繰り返さなくてもいいのにね……
「夏の夜」と「博覧会」と「雨」の組み合わせがわたしの好み。
〈2〉で好きなところは、ここ。
われら三人飛行機にのりぬ
例の旋回する飛行機にのりぬ飛行機の夕空にめぐれば
四囲の燈光また夕空にめぐりぬ
こちらも、なんかいい……
「僕」と「女房」と「坊や」で博覧会に遊びに来て飛行機に乗った、ただそれだけだけれど、〈1〉でさんざん「かなしからずや」と繰り返されたから、その余韻を引きずって情景を思い浮かべてしまう…… (このあと詩は「夕空は、紺青の色なりき/燈光は、貝釦の色なりき」とつづく)
この詩の終わりは「坊や」につよく思いをよせる感じで終えられている。
その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、紺青の空!
人の命には誰でも終わりがある(この詩は長男文也の死去から、ひと月あまり後につくられている)。この「坊や」のように幼くして終えてしまった命は(もちろん)哀しい。でも、この詩は、その哀しみを伝えようとしているだけではないように、わたしは思う。
詩のなかでは時が止まる。この「坊や」には〈永遠の過去〉にとどまりつづける未来がある。
上手く言えないけれど、詩や小説にも「生命」がある。それは、誰かに読まれることによって吹き込まれる「生命」だという気がしている。詩が読まれるとき、それぞれの読者のなかで、それぞれの詩的な世界が生まれる。
わたしがこの詩を読むとき、わたしは「夏の夜の博覧会」の情景を、この「坊や」のことを、ありありと思い浮かべることが出来る。そこでは「夏の夜の博覧会」も「坊や」も、いきいきと生きている。哀しみは〈死〉によってもたらされるのではなく、いきいきとした〈生〉のなかに哀しみがある。
中原中也は、その世界(詩的世界)をありのまま書きとめる。すぐれた文学は(また、すぐれた芸術も)時間や空間を越えるというけれど、中原中也の詩もまたそのようだとわたしは思う。
(今回は前回に比べて、少しは中原中也のよい読者になれたかな?)
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