鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

村上春樹 「海辺のカフカ」《5》 夏目漱石をめぐって

 村上春樹『海辺のカフカ』《4》からのつづき(1回目はこちら)。

 『海辺のカフカ』に出てくる夏目漱石のことを語ってみよう。

虞美人草』と『坑夫』

 はじめに『河合隼雄対話集 こころの声を聴く』から村上春樹の語りを引用しよう。

村上 夏目漱石というのは明治で近代自我をもっとも強く日本文学に持ち込んだ作家として評価されているし、今でも非常にたくさんの人が読んでいるわけです。

 (……)

 彼自身のスタイルも初期から比べてずいぶん変わってきていますね。たとえば『虞美人草』と『明暗』を比べるとものすごく違いますね。僕はどっちかというと『虞美人草』とか『坑夫』のほうが好きなんです。

 村上春樹は『虞美人草』や『坑夫』が好みということですね。『海辺のカフカ』第13章から「僕」と大島さんの会話を引用しよう。

 「君はここで今、一生懸命なにを読んでいるの?」
 「今は漱石全集を読んでいます」と僕は言う。

 (……)

 「ここに来てからどんなものを読んだの?」
 「今は『虞美人草』、その前は『坑夫』です」

 カフカくんも『虞美人草』と『坑夫』ということで、なにやらそのままですが……

こころに迫る作品 こころに残る作品

 『河合隼雄対話集 こころの声を聴く』から、ふたたび村上春樹の語りを引用しよう。

村上 『こころ』とか『明暗』『行人』、そういう後期のものは近代自我というのが強くあって、その自我と自分の外なる世界とのフリクションというかコンフリクトを彼はすごく綿密に書いていくわけです。

 (……)

 その描き方は見事だと思うんだけれど、どうも心にあんまり迫ってこないんですね。(……)どうしてこんなことを書く必要があるんだよ、というふうに僕は感じてしまうんです。どっちかというと『虞美人草』なんかのほうが、むちゃくちゃな分、なんだか迫ってくるところがあるんですね。

 ここでの村上春樹は『こころ』や『明暗』の描き方は見事としつつも、『虞美人草』のほうがむちゃくちゃな分、こころに迫ってくるものがあると語る。

 わたしが夏目漱石の後期の作品をいくらか読んで思ったのは、作品をあのように緻密に書くこと(書くという行為そのもの)が、そのまま漱石にとってのこころの癒しになっていたのかもしれないということだった(これはおかしな感想?)。

 『海辺のカフカ』第13章からカフカくん大島さんの会話のつづきをみてみよう。

 「般に言えば漱石の作品の中ではもっとも評判がよくないもののひとつみたいだけれど……、君にはどこが面白かったんだろう?」[『坑夫』についての大島さんの質問です]

 (……)

 「主人公がそういった体験からなにか教訓を得たとか、そこで生き方が変わったとか、人生について深く考えたとか、社会のありかたについて疑問を持ったとか、そういうことはとくには書かれていない。(……)でもなんていうのかな、そういう『なにを言いたいのかわからない』という部分が不思議に心に残るんだ」

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 カフカくんにとっての『坑夫』の魅力は「なにを言いたいのかわからない」ところにあるらしい(こちらも、村上春樹の『虞美人草』の「むちゃくちゃな分、なんだか迫ってくるところがある」と同じように、具体的な魅力の説明にはなってはいませんが…)。

 大島さんは、フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタについて語る。その楽曲の魅力をカフカくんが感じている夏目漱石『坑夫』の魅力に結びつける。

 「それはある種の不完全さを持った作品は、不完全であるがゆえに人間の心を強く引きつける――(……)たとえば君は『坑夫』に引きつけられる、『こころ』や『三四郎』のような完成された作品にない吸引力がそこにあるからだ。(……)そこにはその作品にしかできない心の糸の引っ張りかたがある」

 「不完全さ」という(ある意味便利な)言葉は、村上春樹の作品にたびたび登場する(出来ることなら、大島さんにはもっと別の言葉で作品の魅力について語ってほしかったな…)「その作品にしかできない心の糸の引っ張りかたがある」は、こころに残る素敵な表現だと思う。

不完全な物語のあちら側から響いてくるもの

 カフカくんは夏目漱石の『坑夫』を「なにを言いたいのかわからない」と語る。読者に「わからない」と思わせてしまうのは作家の不親切なのだろうか? 夏目漱石は作品を詳細に検討して、そこで語られるべき言葉を「わかるように」明確に見いだすべきだったのだろうか? なるほど、と誰もが理解出来る言葉で語れなかったことを欠点と考えるなら、『坑夫』は大島さんが語るように「不完全さを持った作品」ということになるかもしれない。

 近代自我を主題にした作品は、「わたし」(自我)と世界(他者)の関係を言葉で緻密に表現しようとする傾向があると思う。でも、この世界も「わたし」もそのすべてを明確な言葉で語るには、大きすぎるし複雑すぎる。それを明確な言葉(物語)だけで語ろうすれば、語れる範囲は(作家の力量にもよるけれど)おのずと限定されてしまう。それを越えて語ろうとすれば、そこから先は作家にとってもよくわからない(明確な言葉にならない)領域になる。

 物語を「理解できる言葉やイメージの集まり」と考えると「わからない」ところですべて終わってしまう。でも、わたしたちのこころは不思議なことに「わからない」ことのあちら側を感覚として受けとることが出来る。そのようにして物語は「わかる」ことを越えてゆくかのように広がってゆく。その広がりの部分はかならずしも明確な言葉で語られた領域ではないのだから、物語全体としてみれば、それは不完全な物語ということになるのかもしれない。

 村上春樹は『河合隼雄対話集 こころの声を聴く』で、夏目漱石の「自我と外なる世界のとの葛藤」を緻密に丁寧に描く晩年の作品について、いくらか批判的に語っている(それが「日本の小説の一つの傾向を固めてしまった」と語る)。

 自我は「わたし」を構成する一部ではあるけれど「わたし」=自我ではないし、「わたし」と世界の関係も摩擦や葛藤だけではない。晩年の夏目漱石は「自我と外なる世界のとの葛藤」という物語世界を設定することで自身にとって最適な物語のフレーム(枠組み)を見つけたともいえるし、そのフレームによって物語世界を限定的なものにしてしまったともいえる。

 村上春樹は小説を書くことに於いてはとても意欲的な作家であり、物語のフレームも(総合小説が描けるような)より大きなものを目指しているという印象をわたしは持っている。その意味で、夏目漱石の作品に於いても、限定された世界を深く丁寧に追求したものよりも、不完全でありながらも物語の「わかる」ことを越えてゆくかのような広がりを持つ作品を好むのではないだろうか。

 今回は語るのがむつかしかった、これくらいで…… チャオ!

 (このシリーズは現在休止中です)

 

鞠十月堂