村上春樹 「風の歌を聴け」《15》
今日のお天気は晴れ。
風がややつよい。
村上春樹『風の歌を聴け』《14》 からのつづき(1回目はこちら)。
ジョーク 死 セックス
『風の歌を聴け』〈19〉は、こんなふうにはじまる。
話せば長いことだが、僕は21歳になる。
まだ充分に若くはあるが、以前ほど若くはない。もしそれが気に入らなければ、日曜の朝にエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りる以外に手はない。
なるぼど「僕」は21歳なのね。それにしても、「エンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りる」とは、いささか物騒な物言い…… ここでの村上春樹は「気に入らない」と「死」を結びつけてみせる。
その結びつきを前にして、ははは、と笑えばよいのだろうか(ここは、笑うところ?)。それを見透かすように文章は次のように続く。
大恐慌を扱った古い映画の中でこんなジョークを聞いたことがある。
「ねえ、僕はエンパイア・ステート・ビルの下を通りかかる時にはいつも傘をさすんだ。だって上から人がバラバラ落ちてくるからね」
なにやらブラック・ジョーク……
ここに引用したことは、この小説においてどのような意味を持つのだろう。学校のテストふうにいえば、ここでの「僕」は何を言おうとしているのだろうか、何を表現しようとしているのだろうか、となるけれど……
これが学校のテストなら、本文に書かれている言葉のなかからそれらしいところを抜き出して答えれば、あるいは正解をもらえるかもしれない(予備校の講師なら、この問いを前にどのような答えを導くだろう?)。
でも、わたしの考えるかぎり、その意味はこの小説のどこにも書いてない。そもそも、このような問いに対して正しい答え、正解があるのかどうかもよくは分からない(答えのない問いを投げかけることが文学では可能であり、ここが数学などとは違うところでもある)。
それでも、長い時間をかけて村上春樹の小説を読んできたわたしのこころは、ここにある意味を見いだす。そして、その意味はわたしにとって軽くない。
ここに書かれていることは、ひとつの不可解な死を前にした「僕」のこころの混乱(とまどい)を表現している。
いまのわたしは、そのように考えている。
(この小説において「僕」のこころが混乱しているというような記述はひとつもない。「僕」はあくまでもクールにこの物語を語りきっている。これは村上春樹の小説への美意識なのかもしれないとも思う)
あるいはそれは、不可解な死を前にして、自らの精神を守るための「こころの防衛の機能」が働いた結果あのような表現になった、ということもできるかもしれない(つまり、正面からその問題にむきあうことができなくて、ジョークに逃げた)。
では、その不可解な死とは誰のどのような死か…… この先を読みすすめていこう。
僕は21歳で、少なくとも今のところは死ぬつもりはない。僕はこれまで三人の女の子と寝た。
「死ぬつもりはない」と、明確に書かれているのを読んで、ひと安心(村上春樹はこのあたりのバランス感覚がとても上手い)。このあと「僕」は、その三人の女の子たちについて、それぞれ短いエピソードを語る。最初の女の子は「高校のクラスメート」、二人目は「ヒッピーの女の子」、三人目は「大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生」。
そして〈19〉は、次のような文章で終えられる。
(……)彼女[三人目の女の子]は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた。今では日が暮れると誰もその林には近づかない。
※ [ ]は、わたしの補足です。
はじめてここを読んだとき、ちょっとした衝撃を覚えた。ここで語られていることは「ねえ、知ってる? この雑木林でうちの学校の女の子が首を吊って自殺したんですって、それがね……」みたいなことだけれど、この彼女は「僕」にとって、そのような見ず知らずの他人ではない。
〈19〉での彼女は「女の子」とか「相手」とか呼ばれている。そして、のちに彼女はこの小説で唯一「ガールフレンド」と呼ばれる。そう、「僕」の「ガールフレンド」は自殺してしまったのだ! (この小説には他にも、「初めてデートした女の子」なども登場するけれど、どれも「ガールフレンド」とは呼ばれていない)
そのガールフレンドについて、あたかも見ず知らず女の子(あるいはごく浅いつきあいしかない女の子)のことを語るように表現している。このことの意味はとても大きい(と思う)(このことについての説明をはじめると長くなりそうなので、それはまたの機会にしよう)。
また、ここでは「寝た」、つまりセックスと自殺とが結びついている。このことの意味もまた深い(と思う)。
『ノルウェイの森』から、直子の言葉を引用しておこう。
……ねえ、どうしてあなたあのときわたしと寝たりしたのよ? どうしてわたしを放っておいてくれなかったのよ?
と、直子さんは語っておられますが……
話は横道にそれて、細かい話になるのだけれど、この直子の台詞について少し書いておきたい。わたしはここでの「?」がなんとなく気になっている。ここに「?」は必要だろうか。
「どうして」とあって「~したの、~くれなかったの」なら「僕」への問いかけと考えて「?」でよいと思う。でも、「よ」で終えられているニュアンスを考えると、彼女はあのとき放っておいてほしかったことを「僕」に訴えかけているわけだから「?」はいらないんじゃないかという気がする…… ちがう? (あるいは、自殺した直子に対する「僕」の戸惑うこころが、ここに疑問符を付けさせたと解釈すべきだろうか…)
『風の歌を聴け』の文章は、とても洒落ている。でも、その根底にあるものは、そうではないとわたしは思っている。
- 次回 「風の歌を聴け」《16》
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