村上春樹 「風の歌を聴け」《16》
今日のお天気は晴れ。
明るい日差しが素敵。
風邪の具合も、だいぶよくなってきた。でもね、からだのあちこちが痛い。体調の回復に合わせて、いくらか憂鬱だった気分も回復傾向(よかった…)。
村上春樹『風の歌を聴け』《15》からのつづき(1回目はこちら)(文学カテゴリーを書くのはひさしぶり)。
抑圧されたこころの痛み
『風の歌を聴け』〈20〉は「僕」とレコード店で出会った女の子との会話。場所はいつものジェイズ・バー。
バーのカウンターに腰かけ、氷の溶けてしまったジンジャー・エールのグラスの底をストローでかきまわしている彼女。そこへ、ようやく「僕」がやって来る。
「来ないかと思ったわ」
僕が隣りに座ると、彼女は少しほっとしたように言った。
「僕」が来なければ、このお話はすすまないのだから心配しなくていいよ(と言っておこう…)。ここでの「僕」は、彼女に対して妙に親身。
「両親は何処に居る?」
「話したくないわ」
「どうして?」
「立派な人間は自分の家のゴタゴタなんて他人に話したりしないわ。そうでしょ?」(……)
「でも話した方がいい」僕はそう言った。
「何故?」
「第一に、どうせいつかは誰かに話すことになるし、第二に僕ならそのことについて誰にもしゃべらない」
「両親は何処に居る?」や「でも話した方がいい」は、あまり僕らしくない台詞。やさしいのね……
三人目の女の子(自殺したガールフレンド)の話を上手く聞くことが出来なかったから、いまこうやって彼女の話を親身に聞いているのだろうか? ふと、そう思ってしまう(つまりこれは、やさしさではなくて代替行為ってこと?)
でも、たとえそうであっても、話をすることは大切なこ。そこに、いくらかの洒落た雰囲気があればなお素敵。
この会話のシーンは文庫本で6ページと少し。最後は動物の話で終えられる。彼女は動物のことを「私も好きよ」と、言う(わたしも、動物は好き!)。それに対して僕は……
「ねえ、インドのバガルプールに居た有名な豹は3年間に350人ものインド人を食い殺した」
「そう?」
「そして豹退治に呼ばれたイギリス人のジム・コルヴェット大佐はその豹も含めて8年間に125匹の豹と虎を撃ち殺した。それでも動物が好き?」
人も動物も死にすぎ…… (この章をこんなふうに終えなくても…)
自殺はひとのこころを暴力的に傷つける(自殺した女の子は「僕」のこころを傷つけてしまった…)。でも「僕」にその自覚はほとんどない(そのように見受けられる)。「僕」はその不可解な「死」によるこころの傷を、意識下に押し込めてしまっている(つまり心理学でいうところの抑圧)。
だからこそ〈1〉の「何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない」は、そんな僕の切実な願いなのだと思う。
わたしたちのこころは、意識されたことが言葉になる(意識されないことは言葉にならない)。でも、すぐれた物語(小説)は、意識されない領域にまで届こうとする。やむにやまれぬ思いが、それを可能にするのだろうか? わたしはこの小説を、そんなふうに読んでいる。
- 次回 「風の歌を聴け」《17》
- 前回 「風の歌を聴け」《15》