鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

村上春樹 「風の歌を聴け」《18》

 今日のお天気は小雨。

 そろそろ梅雨入りかな?

 村上春樹『風の歌を聴け』《17》からのつづき(1回目はこちら)。

死という出来事

 『風の歌を聴け』〈21〉は、とても短い。文庫本でわずかに8行。でも、書かれている内容には、いくらかどきりとさせられる。

 〈21〉は「三人目のガール・フレンドが死んだ半月後、僕はミシュレの『魔女』を読んでいた」とはじまる。それまでの「寝た女の子」から「ガール・フレンド」へと表現がかわっている。

 このガールフレンドについては後に、詳しく語られることになる。この小説は「僕」の物語ではあるけれど、「三人目のガール・フレンド」のために書かれたお話でもあるとわたしは思っている。

 つづきをみてみよう。

 ローレンヌ地方のすぐれた裁判官レミーは八百の魔女を焼いたが、この『恐怖政治』について勝ち誇っている。彼は言う、『わたしの正義はあまりにあまねきため、先日捕らえられた十六名はひとが手を下すのを待たず、まず自らくびれてしまったほどである』(篠田浩一郎・訳)

 このミシュレの「魔女」の一節を読んで「僕」は「わたしの正義はあまりにあまねきため、というところがなんともいえず良い」と言う。〈21〉は、このような内容。

 この短い章をどのように考えればよいだろうか。ここでは、ガールフレンドの自殺と、魔女として捕らえられた女性の自殺とが結びつけられている。ここを読むと、わたしの頭はいくらか混乱してしまう……

 「なんともいえず良い」という結びのひと言は、あえてクールをよそおう「僕」のカムフラージュだろうか…… ここでは、「魔女狩り」や「魔女裁判」が中世の出来事であり、現代のことではないことに注目してみたい。

 〈26〉から、ガールフレンドの死についての「僕」の語り。

 何故彼女が死んだのかは誰にもわからない。彼女自身にわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う。

 つまりこの「僕」は、彼女の自殺した理由がさっぱり分からない(思い当たるところがない)。だから、この現代においてはまず起こり得ない(あきらかに不条理な)魔女狩りや魔女裁判をそこに結びつけた。いまのわたしは、こんなふうに考えている。「僕」にとっての彼女の死は、いまのわたしたちの暮らす世界にとって、非現実な意味合いを持つ出来事のように見えている(ちがう?)。

 このことは視点をかえると、ひとりの女の子の死によって「僕」の日常は、もうそれ以前の日常ではなくなってしまったとも言える。

 『ノルウェイの森』第2章から引用しよう。

 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 この有名な言葉はいくらか美しくもあるけれど、このことの意味することは、けっしてやさしくないと思う。死をそのように生の一部として意識することは、この平穏な日々をいくらか失ってしまうことを意味するのだから…… (このような死は、広漠とした意識下の領域に住まわせておくのがよいと思うよ…)

 死という出来事をめぐる物語。村上春樹の原点と面白さがここにある。

 (このシリーズは現在休止中です… 再開時期は未定)

 

鞠十月堂