村上春樹 「風の歌を聴け」《6》
今日のお天気は晴れ。
こちらの気分は、ほどほど。
村上春樹『風の歌を聴け』《5》からのつづき(1回目はこちら)。
鼠の登場 僕との不確かな関係
『風の歌を聴け』〈3〉で「鼠」登場。
「鼠」は「僕」の影のような存在って、説明でいいのかな? 何かの本にそう書いてあった。わたしもそんなふうに思う。奇妙にリアリティが感じられない人物。どこか出がらしのお茶みたい。損な役回りと言ってしまえば、それまでかもしれないけれど……
「鼠」は『1973年のピンボール』にも出てきて『羊をめぐる冒険』で死んでしまう。彼が死んでしまったときも、とくに悲しいとは思わなかったな(その死もまた希薄な印象だった)。どうしてかって? それは彼がはじめからこの世界に生きいてはいなかったから(わたしにはそんなふうに思われた…)。
『ユリイカ 村上春樹の世界』(1989)のインタビューから、村上春樹が「僕」と「鼠」の関係について語ったところを引用しておこう。
「鼠」の場合には「僕」とのアイデンティティーの分離がはっきりとできていないですけどね。(……)その運命の差異というのはそれほどまだ明確ではないんです。(……)自己弁護するわけじゃないけれど、その分離の不明確さがあの三部作の特徴じゃないかと思うんですね。
なるほど……
〈5〉から「鼠」の質問と「僕」の答え(会話のみを抽出)。
「何故本ばかり読む?」
「フローベルがもう死んじまった人間だからさ」
「生きている作家の本は読まない?」
「生きている作家になんてなんの価値もないよ」
「何故?」
「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな」
質問と答えを微妙にスライドさせた会話。こういう雰囲気の会話は、ちょっと好き。
ここでは、死んだ人間(死んだ作家ではない)に対して「許せそうな気がする」って言葉に注目してみたい。わたしはこのような言葉にも、微妙なニュアンスを感じてしまう。「許せそう」と「許せる」は違う。
死をどのように受け止めるかは、むつかしい問題だと思う。それが、自殺したガールフレンドの死ならなおさらって気がするけれど……
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