鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「デンドロカカリヤ」《7》 コモン君の世界

 安部公房『デンドロカカリヤ』《6》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 植物に変形したコモン君の世界をさらに見てゆこう。

コモン君は自己の内面に閉じこもっているのだろうか?

 『デンドロカカリヤ』シリーズの構想をあれこれと思い描いていた頃、ネット経由でいくつかの記事や論文を読ませていただいた。コモン君の人間から植物への変形を「自分の内側にこもっていたい」「自己閉鎖への逃避」というふうな言葉で論じられているのを読んだとき、それはちょっと違うんじゃないかと思った。

 人間から植物への変形は、そのような世界観(わたしたち一般の世界観)から、はみ出すようなものではないのか? わたしにはそのように思われる(安部公房の卓越した発想力=イメージの跳躍力を、わたしたちの平凡な思考の枠にはめ込むようなことはしたくない…)。

 このシリーズではさまざまな対象を図にして考えてきた。人間から植物への変形を一般的な意味ので「自己の内面に閉じこもっている状態」と仮定した場合、その図はどのようになるだろう。

一般的な意味で自己の内面に閉じこもっているコモン君

 (8)一般的な意味で自己の内面に閉じこもっているコモン君の図。

 「自己の内面に閉じこもっている状態」では「内」と「外」にそれぞれ、精神的な壁、物理的な壁をつくることが出来る。

 内――精神的な壁としての意識の断層。
 外――物理的な壁としての植物への変形。

 ということですね。コモン君の変形が人間から植物への単純な移行なら、図8のようになると思う。分かりやすい図ではあるけれど、これを植物に変形したコモン君の世界とすることは出来ない。『デンドロカカリヤ』では、コモン君の顔を境界面にして「内」と「外」がひっくりかえる。

意識と身体の分離

 《6》で見てきたような「内」と「外」を入れ替える操作は、奇妙な世界の転換にも思われる。でも、その部分部分に注目しつつ考えてゆくと、意外に合理的な仕組みになっている気もする(わたしの理解です…)。

 人間から植物への変形では、意識と身体の分離がおこなわれる(3回目の変形で「自分でない、しかも今まで自分だった部分が~」と語られているように、意識と身体の分離が示唆されていることを確認しておこう)。

 ここで、普通の意味での意識と身体の分離を図にしてみよう。

意識と身体の分離

 (9)意識と身体の分離の図。

 図9をわたしたちの知っている言葉で説明すると「臨死体験」みたいなことになるだろうか(あるいはひろい意味での生き霊といってもよいかもしれない)。このような世界観(世界のモデル)は、小説や映画など、いろいろな物語のなかに出てくるので理解しやすいと思う。皆さんは図9の世界観をどのように思われますか?

 安部公房がそうだったように、理系の思考でこのモデルを検証してみよう。「外」の区域は「実在の世界」になっている。そこに「こころの世界」から移ってきた(抜け出してきた?)意識(魂)が入ってくる。では意識(魂)は実在する〈もの〉だろうか? 「実在の世界」は、実在するものしか存在できないのだから…… そのように考えるとこのモデルの矛盾点が浮かびあがってくる。

 だとしたらどうすればいいだろう? 「外」の区域をまるこど「こころの世界」にしてしまえばいいじゃないか(大胆な発想!)。「外」が「こころの世界」なら、そこに意識(魂)があってもなんの矛盾もない。そのかわり、意識以外のものは、みんな隣の「内」に移ってもらおう(するすると全宇宙が「内」に移動していった…)。

 コモン君の意識はそのようにして維持された。でも、そんなコモン君の意識と交流することは誰にも出来ない。つまり、わたしたちの世界から見れば、コモン君の意識は消滅したのと同じことになる(永遠のお別れですねコモン君… あとにはコモン君の忘れ形見、デンドロカカリヤだけが残された…)。

意識の実体化

 雑誌『表現』版では、植物への変形が「意識が逆に顔の指向性を辿って原存在に還元されて行った話」と語られている(詳細は《5》を参照)。意識から存在への還元(意識の実体化)は、本来の意味とはやや異なるけれどドッペルゲンガーのイメージで考えてみたい。

 こちらも図にしてみよう。

意識の実体化 ドッペルゲンガー

 (10)意識の実体化、ドッペルゲンガーの図。

 ここでのドッペルゲンガーを実際に存在するもうひとりの自分と定義すると、「実在の世界」に置いても矛盾しない(ドッペルゲンガーを「このぼく」「あのぼく」の視点から眺めると、非存在として「外」に置かれていた自己のイメージ「あのぼく」の実体化と考えることが出来る)。

 参考:ドッペルゲンガーは一般には幻覚と考えられているようです(未来人説やパラレルワールド説などもあります)。デンドロカカリヤはシュルレアリスム(超現実主義)の手法で描かれるので、ここでは幻覚としてのドッペルゲンガーを超現実~もうひとつの現実(実在)としてとらえ、考えてみたいと思います。

 意識から実体化されてゆく存在(ドッペルゲンガー)を人間から植物にすることで、(いささかご都合主義的な展開ではあるけれど)「実在の世界」にデンドロカカリヤとしてのコモン君が誕生する。つまりコモン君の「ふと心の中で植物みたいなものが生えてくるのを感じた」という心象風景=意識が存在に還元された(実体化した)ということですね。

 「実在の世界」にデンドロカカリヤとしてのコモン君が誕生したのだからこれでよいような気もしますが…… これだと人間と植物、ふたりのコモン君が存在することになる。

 これを回避するために「内」と「外」を入れ替えよう。人間のコモン君は、この操作の過程で意識と身体が分離される。その分離された身体に重ねあわせてコモン君の意識(こころの奥底にある植物のイメージ)を存在に還元してゆけばよい(これなら上手くゆく)。

 (ここまで見てきた「臨死体験」「ドッペルゲンガー」ともに、死に近接したイメージになっている。これはなにを意味しているのだろう…)

デンドロカカリヤに変形したコモン君の世界

 ひとは論理的な説明より、イメージによって展開され描写にこころを動かされるものかも知れない。《6》図7「デンドロカカリヤに変形したコモン君の世界」の境界を90度回転させて(ふたつの世界を水平方から垂直方向に並びかえて)、図をつくりなおしてみよう。その図は、わたしたちのこころになにを伝えてくれるだろう。

デンドロカカリヤに変形したコモン君の世界

 (11)デンドロカカリヤに変形したコモン君の世界の図。

 図11の簡単なご説明。

 境界の顔はデンドロカカリヤに変形したコモン君の顔と共通です。ふたつの世界のスケールの違いからあのような表現としました。また、3回目の変形の「まだ微かに跡を残していたコモン君の顔の部分」という表現から、植物への変形が完了するとデンドロカカリヤから顔は完全に失われてしまうものと思われます。つまり、人間―植物の可逆性(スイッチ)が機能しなくなり、コモン君の世界がこの状態で固定される。

 図11をよく見てほしい。図11は図8「一般的な意味で自己の内面に閉じこもっているコモン君」からは、けっして描くことが出来ない。デンドロカカリヤに変形したコモン君の世界=単一者の宇宙は、ほとんど神学的なものと同義だと思う。

 『デンドロカカリヤ』を巡る作図が、図11のイメージに到達したとき、わたしはこころで泣いた(どうしようもなく泣けてきた)。現実の世界に暮らすわたしたちは、あのようなコモン君の世界=宇宙を肯定することは出来ない、でも…… 無名の青年がこのような世界=宇宙を持たなくてはならなかった時代のことをふと思った。

 安部公房リルケに耽溺していた青年時代を「世界を拒み、世界から拒まれているような怖れのなかで」というふうに回想している(詳細は《序2》を参照)。戦争という過酷な状況が人間らしい〈生〉を奪うものなら、なぜ『ドゥイノの悲歌』で歌われたような月桂の樹(植物)であってはならないのか? この世界をコモン君が語ったような「意識の向う側で起こっている廃墟」にしてはならないのか?

 大江健三郎は『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』で「(戦場で兵士は)いくつかの詩を内部にひそめたまま斃れる」と語った(詳細は《序2》を参照)。でも図11の意味するものはそれとは違う。「実在の世界」はコモン君の「こころの世界」の「内」にある。コモン君は自らの意識と身体の分離=死の模倣によって精神=詩のなかに「実在する宇宙の一切」を閉じ込めてしまった……

 デンドロカカリヤに変形したコモン君は「内側にこもっている」わけでも「逃避」しているわけでもない。図11がわたしたちに語りかけてくるものは、もっと痛ましくて過激なことだと思う。『箱男』《1》でご紹介した箱男の語りを引用しよう。

 箱から出るかわりに、世界を箱の中に閉じこめてやる。いまこそ世界が目を閉じてしまうべきなのだ。きっと思い通りになってくれるだろう。

 ここには不幸な時代のなかの弱者のどうすることも出来ない哀しみと怒りと孤独がある。わたしはそう思う。安部公房はそれを裏から描く。センチメンタルな情緒ではなく、シュルレアリスムの表現とユーモアの精神で駆け抜けてゆく。

 安部公房は天才だ!

 (このような「内」と「外」が操作された世界は『デンドロカカリヤ』以前の詩、小説、エッセイのなかでも繰り返し語られている)

 次回は作品に組み込まれたリルケの詩について語ろう。

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