安部公房 「デンドロカカリヤ」《8》 リルケ「ドゥイノの悲歌」
安部公房『デンドロカカリヤ』《7》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。
《序2》で「コモン君の物語」に透けて見えるリルケとの関係から『デンドロカカリヤ』シリーズを展開してみたいと語った。これからじりじりと詩人ライナー・マリア・リルケ(1875-1926)と青年/詩人/作家安部公房(1924-1993)の関係を語ってゆこう。
ドゥイノの悲歌 第九の悲歌
『デンドロカカリヤ』とリルケを直接結びつけているのは、作品に組み込まれた『ドゥイノの悲歌』(第九の悲歌)になる(あらすじ《2》3回目の植物への変形の場面[06]を参照)。
初出、雑誌『表現』版から引用しよう。
ここで一本の植物になり果てよう。(……)そう決心してしまえば、植物になることも、やはり一種の快感なんだよ。なぜ植物になってはいけないんだ! ドゥイノの悲歌の九番に、こんな詩句があるのを知っている?
ただ、この世のはかなさをすごすためなら
何故? とりわけほの暗い緑の中で
葉の縁々に小さな波形を刻む
月桂の樹であってはならないのか?
…………コモン君もこの詩句を想浮かべていたのかもしれないね。
ここでの安部公房は、コモン君が植物(デンドロカカリヤ)に変形することの肯定的(快感的)側面として(さりげなく)リルケの詩を組み込んでいる。
それにしても…… と思う、『ドゥイノの悲歌』を引用するのなら、その作者としてリルケの名前も語っておいた方が読者に対して親切なのではないだろうか。ダンテ、ティミリヤーゼフ、ゲーテの名前は語られているのにどうして? (ゲーテは雑誌『表現』版のみの登場です…)
さらに後年の書肆ユリイカ版(新潮文庫)では「ドゥイノの悲歌の九番に~」のところが削られていて、この詩がどのようなものなのか、リルケの作品をよく知っている方にしか分からないように処理されている(その必要ある?)。
これって、なんだかあやしくありませんか? (わたしは性格がよくないので、このような改稿を知ると犯行を隠すために証拠隠滅を図る犯人の姿をつい思い浮かべてしまう…)
ドゥイノの悲歌 デンドロカカリヤ それぞれの運命
『デンドロカカリヤ』では「第九の悲歌」から、その冒頭部分が引用されている。では、そのつづきはどのようになっているのだろう。第1連全文をご紹介しよう(岩波文庫『リルケ詩集』高安国世訳より)。
なぜ、生存の期間をあのように
月桂樹として、他のあらゆる緑よりも
いくらか濃く、すべての葉のふちに(風の微笑みのように)
ささやかな波を湛えながら。過ごすこともできように――
なぜ人間として生きねばならぬ――そして、運命を避けつつ、
運命にあこがれる……
「運命を避けつつ/運命にあこがれる」は素敵な言葉だと思う。そういえば『デンドロカカリヤ』にも「運命」が出てきたような…… えっと、どこだったかな?
ページを繰ってみると…… あらすじ《2》K嬢からの手紙[03]に「運命」を見つけることが出来る。
あなたが必要です。それがあなたの運命です。
明日の三時に、カンランで……
K嬢からの手紙を読んだコモン君は、(愛の予感にうきうきしながら)珈琲舗カンランに出かけてゆく。でもK嬢はなかなか現れない。「運命は闘いとらなければならぬ」と気合いを入れてみたけれど、その思いも虚しくコモン君は植物に変形してしまう。
ドゥイノの悲歌 幸福と不幸
「第九の悲歌」で語られている人間の「運命」とは、どのようなものだろう。第2連の冒頭部分を引用しよう。
おお、幸福が在るからではない、
まもない喪失の、早まった先触れであるあの幸福が。
リルケは、人間にとっての幸福は喪失の先触れ、つまり失うことの不幸の先触れにすぎないと語る(出会いの喜びがあれば、いずれ必ず別れのつらさや悲しみやが訪れる… 愛も生も永遠ではなく、ひとには皆ひとしく死が訪れる)。
コモン君に届けられたK嬢からの手紙もまた「喪失の、早まった先触れであるあの幸福」だった。運命は、珈琲舗カンランでの「なんでも物が大きく見える」愛の予感の幸福から、思いがけず植物に変形してしまう「恥じらいと絶望」の不幸へとコモン君を導いた(運命は斯くも非情です…)。
「第九の悲歌」第1連の問いかけを受けるかたちで第2連が展開されていることを考えると、第1連で語られた「運命」は次のように言葉を添えて言い換えることも出来ると思う(わたしの理解です…)。
人間は、不幸(喪失、死、絶望)へと導かれる運命を避けつつ、
幸福(愛、喜び)へと導かれる運命にあこがれる……
誰だって不幸な運命は避けたい、そして幸福な運命だけに導かれていたい(でも、それは出来ない…)。ここでのリルケは、ひとの〈生=存在〉は幸福や不幸という、うつろいやすいもののためにあるのではないと語る。
デンドロカカリヤ 幸福と不幸
そういえば『デンドロカカリヤ』でも「幸福」や「不幸」が語られていたような…… えっと、どこだったかな?
ページを繰ってみると…… あらすじ《2》コモン君がギリシャ神話の本を買い求め、植物にされた人々の物語をたしかめるところ[11]や、K植物園長がコモン君のアパートを訪れるところ[13]に「幸福」「不幸」を見つけることが出来る。
[11]の場面でのコモン君の語りはこんなふう。
結局、植物への変形は、不幸を取除いてもらったばっかりに幸福をも奪われることであり、罪から解放されたかわりに、罰そのものの中に投げ込まれることなんだ。これは人間の法律じゃない。
[13]の場面でのコモン君とK植物園長の会話もみておこう。
「私は、あなたに植物園の一室を提供しようっていうわけなんですよ。 (……)まあ極楽ですな。(……)現に植物になった沢山の人が、私のところで一番平穏に暮らしています」
(……)
「(……)私に目星をつけられた人々はみんな幸福ですよ」
「幸福だって!」
「いやいや、幸福じゃなくったって……、幸福だの不幸だのなんて、一体なんの役に立つんです。(……)」
コモン君は、不幸(絶望)のないところには幸福(喜び)もなく、そのような〈生〉のあり方は人間の法律=人間としての存在のあり方ではないと語る(ひとのもつ根源的な〈生〉の苦しみやつらさは人間存在の一部分なのだから、それを失うことは、ひととして生きることを奪われる罰に等しいのではないか)。
K植物園長は、植物になったひとたちの(人間ではなく)植物の側面から、植物にとっての幸福を語る。設備の整えられた植物園で暮らすことは、植物にとっての極楽なのだという(まあ、植物としてならそうかもしれないけれど…)。K植物園長は「非情な植物学者」らしく、人間の幸福や不幸には関心がないらしい……
リルケと安部公房 共通の言葉たち
ふたつの作品に見つけられる共通の言葉たち、運命、幸福と不幸(喪失)。語られている内容、イメージはそれぞれ異なるけれど、この一致は偶然だろうか?
たまたまそうなった? リルケの作品世界を深く愛していた安部公房であれば、偶然ということはないと思う(そのときの安部公房にとって「運命」といえば、それはリルケの語る「運命」なのだから…)。
では、それはなにを意味しているのだろう? 安部公房とリルケのいかなる関係が『デンドロカカリヤ』に隠されているのだろう? 結論をいそいではいけない(と思う)。もっとよく見なくては……
なにひとつ見逃してはならない……
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