安部公房 「砂の女」《序》 逃れられない世界
今日のお天気は雨。
(以下の文章は『砂の女』シリーズのための準備原稿です)
砂の世界がわたしたちに語りかけてくるもの
『砂の女』について、以前、次のような文章を書いたことがある。
(……)この砂の世界こそが、わたしたちの暮らす世界をあらわしているんですね、わたしはそのように理解しています。そんな逃れることの出来ない現実の社会のなかにいて、自由とはなにか、喜びとはなにかについて、いまもつらつらと考えることがあります。
しばらくぶりに、その文章を読み返してみると、これは分かりにくい内容かなあと思ったりもする(どうだろう?)。
わたしたちの暮らすこの世界が、『砂の女』で描かれているような砂の世界でないことにほっと出来るだろうか? そして、そのような視点からこの主人公の男性を気の毒に、あるいは滑稽に思えるだろうか?
誰もが逃れられない世界のなかで生きている
この物語の主人公(仁木順平)は、砂地に住む昆虫を採集するために、街(都市)から砂の集落へとやって来る。しかし、帰りのバスを逃してしまい、そこで一夜を明かすことになった。彼が宿泊のために案内されたのは、深い砂の穴の底のふるびた一軒家だった。縄梯子を下りてゆくと三十前後の小柄な女(未亡人)が男を出迎えてくれた。
朝になって男が帰ろうとすると、どういうわけか、砂の穴から出るための縄梯子がなくなっている(これは困った…)。男は家をぐるりと取り囲む砂の傾斜をよじ登ろうとする。でも、いくら登っても、ずずず、と砂の底に転がり落ちてしまう。これはまさにリアル蟻地獄状態!
この後、男はあれやこれやの方法で砂の穴(砂の集落)からの脱作を試みるのだけれど、どれも上手くいかない(安部公房いつものパターン…)。
そんなこんなで、男はずいぶんとひどい目にも遭うのだけれど、やがて彼のこころにも変化があらわれる。第2章〈27〉から、男がぽつりと女にもらした言葉を引用しよう。
あの生活や、この生活があって、向こうの方が、ちょっぴりましに見えたりする……このまま暮らしていって、それでどうなるんだと思うのが、一番たまらないんだな……どの生活だろうと、そんなこと、分かりっこないに決まっているんだけどね……まあ、すこしでも、気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなく、いいような気がしてしまうんだ……
男がこのように話しはじめるとき、この逃れることの出来ない砂の集落が、わたしたちの暮らす街と等価の構造をもっていることに気がつかないわけにはいかない(わたしにはそのように思われる…)。
(ここでの「構造」とは、その内容、中身のことではなくて、世界と人間との関係のなかから立ち現れてくる構造のことです)
男は砂の集落での暮らしに満足してしまったわけでも、そこからの脱出をあきらめてしまったわけでもない。でも、それ以上のなにかにをこころのうちに見つける。それは、彼が偶然発見した「溜水装置」によって象徴的に表現される(この展開は、とても素晴らしい…)。
それは勝利なのだろうか? それとも敗北なのだろか?
『砂の女』について語ったインタビュー「国家からの失踪」(1967年)から引用しよう。
安部 『砂の女』では、あの主人公が落ち込んだ砂の穴、あそこが都会と同じものなんだということを、あの主人公は、そこまで追いつめられてはじめてわかったわけです。
『砂の女』がソ連で翻訳されて、たいへん問題になっている。つまり『砂の女』のラスト、(……)それが“勝利”なのか“敗北”なのか、というわけですね。
日本では、あの作品の批評で、ラストが“希望のはじまり”と受けとるものがあった。しかし、そういう次元で割り切られたら困るんだなあ。
ここでの安部公房は、砂の穴と都会とが同じものだと端的に語る。同じであるなら、そこから逃げる必然性もなくなってしまう。溜水装置の発見により、彼は砂の集落にとどまることを選ぶ。
では、その結末は勝利(ハッピーエンド)なのだろうか? 敗北(バッドエンド)なのだろうか? それとも「希望のはじまり」なのか……
安部公房は、このような単純な言葉(思考)をきらう。その先をもう少し引用しよう。
もし、そんなふうに割り切れてしまうのなら、文学の世界、その存在理由が意味をもたなくなるじゃないか。小説はいらなくなり、批評だけあればいいのではないですか。
文学は自分に必要なのか、なぜそうなのか、という問いは、常に発せられる必要がある。しかし、それは答えをすぐ出すことのできることではないし、答えたとたんに意味がなくなる。けっして答えは表に出てこないはずです。
「けっして答えは表に出てこないはずです」の言い回しは、ちょっとすごいな…… (答えが表に出てこなくても、この小説の主人公のように、こころのなかのなにかが、自分でも気がつかないうちにかわってしまうこともあるよね…)
「文学作品というのは、われわれが生きている小さいなりの世界をつくって、それを提供すること」と、安部公房は語っていた。だからそれは絶望を語ることでも、希望を伝えることでもなく、そこにひとつの世界があり、そのなかを生きるということなのだろう。
いまの時代について感じていることを少しだけ…
『安部公房全集』を読んでいると、なんとなくだけれど、それぞれの時代の雰囲気を感じることがある。これは文学にかぎったことではないけれど、いまの時代は、この頃(1960~70年代)よりもさらに批評や評論の視点だけがあふれている時代のような気がしている(このように感じるのはわたしだけ?)。
いまの時代をこんなふうに思ってしまうことは、少し悲しい……
凡庸な批評は、つねに分かりやすい言葉で人々を引きつけ、囲い込もうとする(わたしにはそのように感じられる… これは如何なる心理によるもの?)。そして人はそのような分かりやすい言葉にずいぶんと弱い(溺れる)(いまの経済社会はそのような批評の視点を、それとは気づかせないよう巧みに利用しているともいえる…)。
ひとはそのような構造(社会の構造、こころの構造)のなかに、自分でも気がつかないまま(ほとんど意識されることのないまま)暮らしている。
安部公房は人間の自由について考えつづけた作家だった。その代表作でもある『砂の女』を、人間にとっての自由を追求した小説と考えるなら、そのような構造に眼差しをむけてみるのもよいかもしれない(わたしたちが暮らす世界の構造についてなにかを知ったからといって、すぐになにがどうなるというものでもないけれど…)。
砂――岩石の破片の集合体。時として磁鉄鉱、錫石、まれに砂金等をふくむ。直径2~1/16m.m.
追記:この記事は2011年2月11日におおきく加筆訂正しました。
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