鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《番外編1》 ウィキペディア 「箱男」 みしまるもも 編集について

 『箱男』シリーズの番外編1(本編はこちら)。

 ウィキペディア箱男」の内容にはいくらか問題があると感じたので少し語ってみたい(本来は、ウィキペディアの方で語るべきなのだろうけど、不快な思いをしそうなので、ひとまずこちらのブログに書きます)。

 2014.7.17 《番外編2》を書きました。
 2014.12.7 《番外編3》を書きました(問題点はほぼ修正されました)。

みしまるもも氏が編集された過去の版(2014年7月20日)(修正前)
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=箱男&oldid=52342282 

ウィキペディア箱男」最新の版(修正済)
http://ja.wikipedia.org/wiki/箱男

 ※ ウィキペディア箱男」ノートやコメント依頼などから、こちらへ来られた方へ:ノート、他でみしまるもも氏が語られた内容には、明らかな間違いや、わたしが語っていない言葉の捏造があります。ご注意下さい(わたしが語っていないことを語ったように書き、それに対して批判するような行為は、さすがにいかがなものか…)。

 参考:みしまるもも氏の議論姿勢には問題があるようです。
 Wikipedia: コメント依頼/みしまるもも_20140528

 「主観だけを根拠に自分は間違っていないと言い張る」
 「誤りを指摘されても決して非を認めない」
 「支離滅裂な主張や反論をする」他、全11項目。

 わたしがウィキペディア箱男」で問題に思ったところは、おおよそ次の3点です。

 1 あらすじ「再びぼくは病院を訪ねた」の箇所

 「あらすじ」から問題と思われる箇所を引用しよう。

 海水浴場のシャワーで身奇麗にして、再びぼくは病院を訪ねた。贋箱男は、箱の所有権を渡してほしいと言い、ぼくと彼女がここで自由に好きなことをしていいという交換条件に、その行為を覗かせてほしいと言った。贋箱男に促され彼女は服を脱ぎ始めたが、「見られる」ことが嫌なぼくは、その提案を拒否した。そして肩を撃たれた時の犯人の証拠写真を持っていることを告げると、贋箱男は態度が急変し、空気銃で威嚇した。ぼくは贋箱男と格闘する。[1]

 贋箱男は戦時中、軍の衛生兵で、そのときの軍医の名義を借りていた贋医者Cであった。軍医は重病から麻薬依存になり、戦後はCに診療所の代診をさせていた。遺体安置室を自分の部屋にしていた軍医は安楽死を望み、Cが自分を殺してくれることを待っていた。Cは箱男の箱を利用し、軍医が死んだ後の遺体を箱と一緒に海に流し、浮浪者の溺死に擬装しようと考えていた。[2]

 海水浴場のシャワーで身奇麗にし、服を乾くのを待っていた箱男は、自分とそっくりな箱男が歩いているのを見てあわて、やっと病院に辿り着いた。(……)[3]

 ※ [1]~[3]の番号を入れました。

 [1]の「海水浴場のシャワーで身奇麗にして、再びぼくは病院を訪ねた~」は、「書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって」の章の記述だけれど、これは「ぼく」の空想の記述であり、病院を訪れた場面を想定した「ぼく」のシミュレーションなので、あらすじとして書くのは適切ではないでしょう。仮に[1]が現実の「ぼく」の行動だとしたら、では[3]はなに? ということになります([1]でシャワーで身綺麗にしてから病院を訪れ、その後時間が巻戻って、また[3]のように病院を訪れた?)。

 2 あらすじ「Cは箱男の箱を利用し~ 擬装しようと考えていた」の箇所

 [2]の「Cは箱男の箱を利用し、軍医が死んだ後の遺体を箱と一緒に海に流し、浮浪者の溺死に擬装しようと考えていた」というのは「あらすじ」というより「推測」ではないでしょうか(「死刑執行人に罪はない」の章に明示的に書かれているのは海での溺死に見せかけるための偽装のみです)。「箱男の箱を利用し~ 偽装しようと~」というのは、軍医殿が箱男ではないことを意味します。

 文庫本の解説(平岡篤頼)では、「軍医殿がほんものの医者であるがゆえに、ほんものの箱男になり~」と、軍医殿も箱男であるというふうに書かれています(詳細は《番外編3》で語っています)。ネット上に公開されている杉浦幸恵氏の論文『安部公房箱男」における語りの重層性』(2008) http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1900/1/bgshss-no17p17-36.pdf もまた軍医殿=箱男の関係を提示して論じられています(詳細は《番外編3》で語っています)

 (ウィキペディアの脚注は『安部公房箱男」における語りの重要性』となっていますが「重層性」の誤りです)(追記:訂正されました)

 同じように、清末浩平氏修士論文東京大学言語文化学科)「『箱男』論《6》類似と連合」(2006) http://42286268.at.webry.info/201201/article_51.html にも

「軍医殿」=Cはどうやら箱男のようであるが、(……)

 とあり、ここでも軍医殿=箱男の関係が示唆されて『箱男』が論じられています(なお「C」は贋医者であり、「軍医殿」=Cの「C」は誤りだと思われます)(追記: 訂正されました)。

 平岡篤頼氏、杉浦幸恵氏、清末浩平氏ともに軍医殿=箱男の関係を考慮しながらこの作品(「Cの場合」「死刑執行人に罪はない」の章)が論じられています。でも、わたしはそれとは違う読み方をして(推理して)『箱男』シリーズを展開してゆきました。杉浦幸恵氏の「ノート」の指摘は、安部公房の「叙述トリック」ではないかというのがわたしの推理~解釈です(詳細は《9》を参照)。

 ここで「君」と呼びかけられている〈贋医者〉は、『箱男』の冒頭とまったく同じものを書いている。しかし彼が書いているのは「ぼく」=〈軍医〉と「そっくりの」ノートであるということから、本物のノート、つまり冒頭でノートを書いているのは〈軍医〉ということになってしまう。

 この箇所の本文は、

 机の上には(……)書きさしの《供述書》。(……)それをわきにおしやって、かわりに一冊のノートをひろげる。四六判、橙色の縦罫……こいつは驚きだ、 君がノートまで、ぼくとそっくりのを用意したとは知らなかった。曖昧な手つきで、表紙をめくる。第一ページ目は、次のような文句で始まっている。

 となっていて、厳密に読むと驚いているのはノートの「形式」であって「内容」ではないことが分かります(この時点では表紙をめくっていないのだから「内容」は分かりません、それにつづく「内容」を読む場面に驚きの描写はありません)。つまり、ノートの内容(記述)が箱男を示唆するものであっても、それと軍医殿とは結びつかないことになります。

 わたしの『箱男《2》「登場人物とあらすじ」には次のように書いてあります。

 03 そこで箱男の箱を利用することを思いつく。箱男は正体がわからない。箱男から箱を譲り受け、箱男の溺死体として、軍医殿の死体を処理してしまうのはよいアイデアのように思われる(わたしの推理)。

 また《12》「軍医殿の正体」のところでは「わたしの推理はというと、贋医者が軍医殿を殺害した後、箱男の箱を死体遺棄の偽装工作に使うというもの~」と書いています。

 ウィキペディアを編集したみしまるもも氏(履歴からどなたが編集されたのか分かります)は、わたしの『箱男』シリーズを読まれたのでしょう。そこから「箱男の箱を利用し~ 擬装しようと考えていた」というような表現になったのではないでしょうか。「あらすじ 03」に「わたしの推理」と入れてあるように、これはわたし独自の推理、考察による「あらすじ」であり、ウィキペディアにそれを組み込むのはどうかと思います。

参考 『箱男』のあらすじについて

 『箱男』について、本来の意味でのあらすじ(作品全体を俯瞰した物語の筋)を適切に書けるかというと、これは書けないというのが正しいのではないでしょうか(もし書くとすれば、各章を適切に要約して順番に書いてゆくほかないと思われます)。

 『箱男』は一般の小説とは大きく異なるつくりになっています。記述のどこまでが現実の出来事を描写したもの(手記)なのか判然としません。また、各章を誰が書いているのかも、かならずしも明確とはいえません。各章は多様な解釈が可能であり、すべての記述に矛盾しないかたちで、そこから「一貫した物語」(あらすじ)を導くことはほぼ不可能でしょう。

 ウィキペディアの「作品評価・解説」では、安部公房の言葉「バラバラに記憶したものを勝手に、何度でも積み変えてもらうように工夫してみたんですよ」が引用されています(わたしの『箱男』シリーズでは《7》「文章と構成」に同じ言葉が引用してあります)。

 「勝手に、何度でも積み変えてもらうように」というのは、読者が「勝手に」つまり自由に、各章の意味を考え(考察、推測し)、それらを「積み変えて」つまり再構成して『箱男』のノートのなかに「物語」を見つける、ということでしょう。読者が作品世界に積極的に関与しないかぎり、『箱男』からストーリー性のある物語を導くことは出来ません。

 (わたしの場合は「あらすじ(推理を含む)」と「ディープな謎解き編」「裏コードとでも呼ぶべき読み方」のふた通りの物語を語っています)

 その意味では、ウィキペディアに『箱男』の標準(?)となるような「あらすじ」を書くことは、「作品評価・解説」にある「バラバラに記憶したものを勝手に~」というのと矛盾してしまうことだといえます。みしまるもも氏は、そのあたりのことをどのようにお考えでしょうか。

 参考:みしまるもも氏の「作品評価・解説」は引用の羅列であり、あのような解説に奇異な印象を受けるのはわたしだけでしょうか(引用された「作者の言葉」などは適切にその意図や意味が「解説」される必要があるでしょう)。それらの引用箇所は書籍やネット上で散見されるものであり、「作品評価・解説」は、それらをただ寄せ集めただけのように思われます(つまりコピペ)。自分の言葉で「適切な解説」が出来ないのであれば、あのような場所での解説の執筆は控えるのがマナーではないでしょうか(わたしの率直な感想)。

 3 作品評価・解説「箱男の中の人物の謎へのヒント」の箇所

 ウィキペディアでは『箱男』の「本編の箱男の中の人物の謎へのヒント」が『安部公房全集』から引用されています(少し長くなりますがその箇所すべてを引用しておきます)。

 なお、本編では組み込まれず、予告編のみで紹介されていた章には、箱男Bが何者かの襲撃に会って争い、どちらか一人が死んだことになっていて、死んだ男は、「人造皮のジャンパーの腋の下が裂け、裾がめくれて、小さな花模様のシャツがのぞいている」[8]と書かれている。安部は、「ところで、やっかいなのは、ここから先の計算だ。いったい、どっちが死んで、どっちが生き残ったのだろう」[8]と書き、「殺されたのがBの方だった場合は、どういう事になるのだろう。あいにく、事情はまったく変わらないのだ。原因不明の事故による、ごくありふれた変死体。前には彼を守ってくれた同じ条件が、今度は彼を見殺しにする。箱男に化けた襲撃者は、一見して箱男だというだけで、無事容疑者リストから除外してもらえるのだ。たしかに箱は理想の避難所である。箱の外見に変化がないかぎり、内容にどんな変更があろうと、同じ箱男で通用してしまう。本来箱男殺しは、完全犯罪なのだ。そしてBは何時までたってもBなのである」[8]と本編の箱男の中の人物の謎へのヒントを残している。

 みしまるもも氏は『安部公房全集』から引用したこれらの箇所を、どのような理由から「本編の箱男の中の人物の謎へのヒント」と考えたのてしょうか? 「謎へのヒント」になりそうなものはこれだけではなくて『安部公房全集』のなかにたくさんあるように思われますが……

 「ヒント」は謎解きの「答え」と密接に関係しています。それ単独で、それがヒントになっているかどうかは分かりませんい(安部公房が直接「これがヒントですよ」と明言しているわけではありません)。「ヒント」は謎を解くのに役立ったときはじめて、それが「有効なヒント」だと分かります。

 わたしの『箱男』シリーズでは、「箱男 予告編」(周辺飛行13)が謎解きの大切な「ヒント」になっています。わたしの『箱男』シリーズを読めばあの箇所が「ヒント」ということの意味は分かると思います(詳細は《15》箱男 予告編」、《16》 「もうひとつの殺人事件」を参照)。でも、そうでなければ一般の方は、それを「ヒント」と思うでしょうか? たぶん思わないでしょう。

 「箱男 予告編」は、1972年に『波』(新潮社の読書情報誌)に発表されています。安部公房は人気のある作家です。『波』に掲載された「箱男 予告編」は、おおくの方に読まれたことでしょう(そして、それを読まれたおおく方は『箱男』も読まれたでしょう)。また、「箱男 予告編」がおさめられた『安部公房全集 23』は1999年に発売されています。ここでも、おおくの方が「箱男 予告編」を読まれたと思います。でも、それを「ヒント」にして『箱男』の謎解きに結びつけた方がいたでしょうか?

 引用された箇所は「ヒントを残している」と表現されるような自明のヒントではありません。みしまるもも氏は、なぜそれを「ヒント」と考えたのでしょう? みしまるもも氏は、わたしの『箱男』シリーズを読み、あの箇所をウィキペディアに「ヒント」として書いたのではなでしょうか。

 これまで『箱男』については、さまざまに語られてきました。論文もたくさん存在します。そのなかに、わたしのような「あらすじ(推理を含む)」や「ディープな謎解き編~裏コードとでも呼ぶべき読み方」のようなものがあったでしょうか? みしまるもも氏には、そのことの意味をよく考えて頂きたいと思います。わたしの『箱男』シリーズは、正式な論文のかたちをとっていません(ブログでの語り口は軽い)。でもそれは、誰もが書ける自明の内容(一般的な内容)を意味していません(内容はけっして単純なものではありませんし、あのような推理には深い洞察や直感、文学への幅広い知見を必要とするものもあります)(語りの「お気軽スタイル」は皆さんに楽しく読んで頂くための工夫であり、そのあたりお間違いのないように…)。

 ウィキペディアは書籍としては存在せず、情報としてネット上にあります。それは著作権などで適切に保護されています。わたしのブログの記事もまた著作物として適切に保護されています。みしまるもも氏は、わたしの『箱男』シリーズを参考にしつつ、そこから、こちらの著作権などに触れない範囲で要領よくウィキペディアを編集したと思っていらっしゃるかもしれません。でも、わたしには問題があるように思われます。著作物ということでは「論文」も「ブログの記事」も同じように大切にされなければなりません(無名の個人のブログに書かれていることだからといって内容を粗末に扱ってはいけません)。

付記

 ウィキペディアのことをブログに書いても仕方のないところもありますが、まあ一歩前進ということで…… (みしまるもも氏に関係したウィキペディアでの「議論」を読ませて頂くと、あのような場所で貴重な時間を失いたくないと思う…)

 わたしはウィキペディアについて詳しくありません(そのルールの詳細を知りません)。ご意見などあれば、メールでお知らせ頂ければと思います。

参考リンク

Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも

 みしまるもも氏の「作品評価・解説」が適切であるかどうかが議論されているようです。

Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも

 みしまるもも氏は文学だけではなく細胞生物学(万能細胞など)の編集もされているみたいです……

 「みしまるもも」で検索すると、いろいろと情報がでてきますが(う~ん…)、この方はなにを目的にウィキペディアの編集をしていらっしゃるのでしょうか?

ご案内

 

鞠十月堂