鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「鞄」《3》 どのように問うか

 安部公房『鞄』《2》からのつづき(1回目と目次はこちら)。

 『鞄』は教科書に採用されているということもあって、この『鞄』シリーズにもGoogleなどの検索からたくさんのアクセスがある。皆さんは、なにを求めてこちらにいらっしゃるのだろう? この物語についてよく分からないところがあって、その答えを求めていらっしゃるのだろうか?

 安部公房 『鞄』 第2部 探求シリーズ、その1回目は「問い方」について語ってみよう。

〈答〉より先に〈問〉がある

 〈答〉というのは〈問〉との組み合わせによってはじめて可能になる。この場合〈答〉よりも〈問〉の方が先にあるのだから、どのように〈問〉をたてるかということは大切なことだと思う。

 『鞄』の最後の数行を引用しよう。

 (……)やむを得ず、とにかく歩ける方向に歩いてみるしかなかった。そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった。

  べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、何処までもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。

 わたしの印象にすぎないけれど、この作品で自由についての〈問〉をたてるとき「選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった」の文章が引用される(選ばれる)ことがおおいように思う。

 選ぶ道がないというのは選択の自由がない(自由に選べない)ということになる。にもかかわらず「私」は自由だったと語っている。これはなにか矛盾したことのようにも思われる。このようなところから〈問〉をたてると、まるで禅問答でもしているかのようで、それに答えることはとてもむつかしくなってしまう(う~ん、こまった…)。

問い方を考えてみる

 この最後の文章にはちょっとしたトリックが仕掛けられている(わたしにはそのように思われる)。もういちど、最後の段落を丁寧に読みかえしてみよう(それぞれの文の関係はどのようになっているだろうか?)。

 それぞれの文の関係に注目しつつ読んでみると「選ぶ道がなければ、迷うこともない」は、それより少し前に書かれている「べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている」の言いかえのようになっていることに気がつく。つまり……

 不安は感じなかった → 迷うことがない(人は迷うと不安になる、迷うことがないので不安にならない)

 鞄が私を導いてくれている → 選ぶ道がない(鞄が道を選んで「私」を導いてくれている、「私」は導かれる方なので道を選ばなくてよい)

 ということになる。

 選ぶ道がないことを「選択の自由がない」というイメージで捉えるのと「導いてくれている」というイメージで捉えるのとでは、ずいぶんと印象がちがってくる。ここでは作品のなかに「鞄が私を導いてくれている」と表現されているので、選ぶ道がないことを鞄が「導いてくれている」というイメージで捉えるのがよいと思う。

 不安に思うことなく鞄に導かれることが「私」の自由だとすると、それは自由のあり方(感じ方)のひとつということになり、イメージしやすくなる。選ぶ道(選択の自由)がないのに、それを自由だと語れば、それはいかにも奇妙なことのように聞こえる。

 (語り方や視点をかえることで、そこに謎や迷路、パラドックスが立ち現れてくる… 安部公房はこのような創作のテクをよく使っていた)

〈問〉を見つめ 物語によりそう

 愛という言葉を辞書でひけば、わたしたちはその説明(言葉の意味)を読むことが出来る。でも、わたしたちは愛がそこに書かれただけの説明に終わらないことを知っている。自由についてもそうだとわたしは思う。

 自由のイメージはひとつではない。わたしたちの暮らす世界には、さまざまな自由がある。論理的な自由もあれば、ひとのこころが感じる心理的な自由もあるだろう。これまでみてきたように『鞄』では、手にした鞄に導かれることの自由が描かれる。

 では、それをどのように探求してゆくのがよいだろう。わたしたちはすでに自由についてのさまざまな知識やイメージを持っている。それらの知識やイメージをあれこれと『鞄』の物語にあてはめて考えてみるのがよいだろうか? でもなあ、と思う。自由というのはひとにとっての愛や生や死と同じくらい奥深くて複雑でどこまでも探求できるほどに大きい。『鞄』で語られている自由が、わたしたちが知識やイメージとして持っている自由と符合してくれるとはかぎらない。

 (ひとにとっての自由について、あれこれ考えてみたい方は「自由意思」などで検索してみてください。哲学では自由意思がないという立場もあったりします…)

 まずは、主人公である「私」のこころに寄りそうことからはじめてみてはどうだろう。『鞄』の物語世界を「私」といっしょに経験してみたい。物語の結末で「私」の感じている自由を、わたしたちもまた実感してみたい。出来るだろうか? (「私」の感じている自由が実感できなければ、いくら自由について語ってみたところで、それはどこかよそで語られるべき、ほかの誰かの自由でしかない…)それが実感できたとき、わたしたちはそれぞれに『鞄』に描かれた自由の意味を知るのだと思う。

 安部公房は自由な発想で、魅力的な作品をつくりつづけてきた。それを読むわたしたちのこころもまた自由でありたい。

 次回は物語の構成について語ろう。

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