鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「鞄」《4》 構成から見えてくるもの

 安部公房『鞄』《3》からのつづき(1回目と目次はこちら)。

 『鞄』の構成について語ってみよう。

『鞄』の構成はどのようになっているだろう?

 『鞄』は短い作品なので、その構成もシンプルなものになっている。この物語は大きくふたつに分けることが出来る。分けるとしたら、どこで区切るのがよいだろう(これは簡単ですよね)。

 実際に区切ってみよう。

 (……)知り合いの周旋屋に電話で照会してやると、彼はさっそく下見に出向いて行った。ごく自然に、当然のなりゆきとして、後に例の鞄が残された。

――ここが区切り――

 なんということもなしに、鞄を持ち上げてみた。ずっしりと腕にこたえた。こたえたが、持てないほどではなかった。ためしに、二、三歩、歩いてみた。もっと歩けそうだった。

 つまり……

 というふうに、分けることが出来る。

 本題とは関係ありませんが、小説の創作に於ける豆知識をご紹介。

 [1]と[2]の行数をくらべてみると、おおよそ10対2くらいの割合になっている。[1]のパートは[2]のパートにくらべてずいぶんと長い、どうしてだろう。それには理由がある。

 ここに出てくる鞄は、わたしたちが知っている普通の鞄とは違う。小説のセオリーでは、読者が知らない未知のものについては、十分にページを使って語る必要があるとされている。そのものについていろいろな角度から語ることで、簡単な説明では得られない存在感やイメージが読者のなかに生まれる。

後半部分の構成から見えてくるもの

 ふたつに分けた後半部分[2]をさらに詳しく見てゆこう。[2]「私」が鞄を手にして歩くパートを読むと、それが3つの段落からつくられていることが分かる。それぞれの段落では、どのようなことが語られているだろう?

 わたしのイメージでまとめてみると……

 2-1 青年が置いていった鞄をふと持ち上げてみた。ずしりと重い。「ためしに、二、三歩、歩いてみた。もっと歩けそうだった」(好奇心から鞄を持って歩いてみた)

 2-2 いつのまにか「私」は鞄を持って事務所を出ていた。事務所に引き返そうとするのだけれど、「普段はまるで意識しなかった、坂や石段にさえぎられ」戻ることが出来ない(どうしよう… 鞄を持っているために思い通りの道をすすめない)。「そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった」

 2-3 「べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、何処までもただ歩きつづけていればよかった」と「私」は思っている。「私は嫌になるほど自由だった」(鞄が「私」を導いてくれている、「私」は自由を感じた)

 というふうになる(と思う)。

 ここで、それぞれの段落の内容を見比べてみよう。すると面白いことに気がつく(皆さんは気がつきましたか? [2-1]~[2-3]で共通していることはなんだろう、大きく違っているところはどこだろう…)。

 [2-1]~[2-3]を見てみると、「私」は鞄を途中で手放すことなく、ずっと持ったまま行動していることが分かる。つまり「私」は終始、鞄にその行動を制約されているということになる。

 同じように鞄に制約されながらも、「私」にとっての鞄の意味(鞄との関係)は[2-2]と[2-3]では大きく違っている。[2-2]では言葉として「不自由」とは表現されていないけれど、事務所に戻ろうとして戻れないのだから、普通に考えればそれは不自由ということになる(鞄との対立的関係)。それが[2-3]では「鞄が私を導いてくれている」という心情にかわり、「私」はそこに自由を感じている(鞄との肯定的関係)。

 『鞄』について考えるうえで、これはもっとも大切なポイントのひとつだと思う。そのとき「私」のこころになにが起きたのだろう?

学校で教えられている(と思われる)ことについて

 いくらか余計なことですが…… ネット上で、学校の教師の方、塾の講師の方などが書かれた『鞄』の記事をいくらか読ませていただいて、少し気になることがあったので書いておこう。

 わたしの想像にすぎないけれど、それらの記事は指導書を参考に書かれたもののように思われる(どの記事も同じような自由の考え方で『鞄』を説明している)。自由についてはいろいろな考え方があるので、そこで語られている自由が間違っているとは思わない。しかし、そこで語られている自由が『鞄』で語られている自由かというと、それはちょっと違うんじゃないかと思う。

 そこで語られている自由をわたしの言葉で簡単に表現してみると次のようになる。

 「人間は自由すぎても自由を感じられなくて(選択することが出来なくて)、なんらかの制約(規制)があった方が自由を感じられる(迷わず選択できる)」

 このようにして語られる自由は自由意思の問題と深く関わっている。これは簡単に答えを出すことの出来ない哲学的命題ともいえるので、いまはその内容の是非については問いません(つまりこのような自由の考え方もあるということでお話をすすめますね…)。

 では、このような自由の考え方で『鞄』を読み解くことが出来るだろうか? 『鞄』の結末は「選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった」となっている。ここでの自由の考え方は「なんらかの制約(規制)があった方が自由を感じられる」とあるので、この部分はたしかに合っている(ように思われる)。

 でも、そこしか合っていないよ…… このような自由の考え方で『鞄』を読み解こうとするとする場合、おおきくふたつの問題点があるので指摘しておこう。

 問題点 1 「人間は自由すぎても自由を感じられなくて~」は、『鞄』の物語のどこで表現されているだろう? このような自由(本当の自由?)は常識的なこと(誰にとっても自明なこと)ではないので、作品のなかで表現されている必要がある(二人の登場人物のどちらもそのような自由について語っていないし体験もしていない)。

 問題点 2 後半部分の[2-3]では、「私」は「自由だった」と語っている。では[2-2]のときはどうだろう。[2-2]は[2-3]と同じように鞄に制約されているのだから、こちらも同じように自由を感じるはずだけれど…… 同じように制約されているのに、あるときは不自由を感じ、またあるときは自由を感じる。このようなことは、ここで語られている自由の考え方からは説明できない。

 [問題点1][問題点2]とも自由についての本質的な事柄なので、あのような自由の考え方から『鞄』で描かれた自由を語るのは適切ではないと思う。無理があるというより、出来ない(鞄を常識や社会の象徴と考えた場合の矛盾点については《2》を参照)。

 このようなことを先生方はどのようにお考えなのだろうか? (よろしければメールでよいので、お話をお聞かせいただけたらと思います…)

 次回は「私」の心理を探求しよう。

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