安部公房 「鞄」《5》 自由と不自由の境界
「私」の心理について考えてゆこう。
自由と不自由の境界
前回、鞄を持って事務所を出かけた「私」の心理が不自由([2-2]事務所に戻れない)から自由([2-3]鞄に導かれている)へと変化していることを指摘した。その境界がどこにあるのかを確認しておこう。
[2-2](……)そのまま事務所に引返すつもりだったが、どうもうまくいかない。いくら道順を思い浮かべてみても、ふだんはまるで意識しなかった、坂や石段にさえぎられ、ずたずたに寸断されて使い物にならないのだ。やむを得ず、とにかく歩ける方向に歩いてみるしかなかった。そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった。
(↑)不自由――ここが境界――自由(↓)
[2-3]べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、何処までもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。
「私」のこころは、ここを境に「不自由」から「自由」へと大きくかわる。「やむを得ず、とにかく歩ける方向に~」から「鞄が導いてくれている」へのこころの変化は、どのような理由によるものだろう。境界は行間なので、もちろん何も書かれていない。『鞄』全文を読みかえしてみても、その理由を示唆しているようなところは見当たらない。
探求をテーマにはじめた第2部ではあるけれど、う~ん…… ここから先、どのように探求してゆくのがよいだろう……
さまざまな探求
作品世界を探求する方法はさまざまある。安部公房の著作は『鞄』だけではないので、まずはその他の著作(小説、戯曲、エッセイ、インタビューなど)を読み、その後『鞄』についてあれこれ考えてゆくのがよいかもしれない(これはオーソドックスな探求の方法といえるだろうか…)。
安部公房が影響を受けたと思われる作家(ポー、ルイス・キャロル、カフカなど)との関連から調べてみるのも面白いかもしれない。また、文学以外のジャンルからアプローチしてゆく方法もある(わたしは第1部でいくらかの心理学的側面から『鞄』を語った)。
と語りつつも、これらの方法はお手軽とはいえない。『安部公房全集』は全30巻あるし、ポー、ルイス・キャロル、カフカなどの作家を詳しく知るのにも時間がかかる。もっと簡単に探求できる方法はないだろうか。
わたしがよくやっている探求はこんなふう
なぜ〈問〉にうまく答えられないのかを考えてみよう…… 理由はかんたん、あたえられた〈問〉がむつかしすぎるから(そうでしょ)。ということは、解答困難な〈問〉に直接アプローチするのではなく、その周辺から他の〈問〉を見つけて、それに答えてゆけばよいと思う。
それぞれの〈問〉は単独で存在しているわけではなくて、それとなく関係を持っていることがおおい。〈問〉になんらかの関係があれば、そこで得られた〈答〉もまた関係を持っているということになる。
〈問〉はいくつでも見つけることができる。例えば、この物語の[2-2]以降、「そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった」から先を自由に創作してみよう、という〈問〉はどうだろう(面白そうでしょ)。
このような〈問〉に意味があるの? と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれない。まあ、さして意味はないかもしれないけれど…… 設定を引き継ぎ、お話のつづきを考えることで、いち読者としてだけではなく、作家の領域にまで踏み込んで(視野をひろげて)物語を考えることが出来るようになる。そうすると、ここで語られた結末がいかに独創的なものであるかを実感できると思う(この設定を使った面白いお話はいろいろつくれても、あのような結末を描けるのは安部公房だけだろう…)。
さまざまに見つけられた〈問〉が最終的な〈答〉に導いてくれるかどうかは分からない。探求というのはただそれだけで楽しい、わたしはそのように思っている。
結末の自由について少々…
ネット上では『鞄』の結末で語られた自由について説明された記事をいくつか読むことが出来る。《1》にも少し書いたけれど、そこでの〈答〉に次のようなものがある。
「自分の意思(思考)で選択することの困難(あるいは責任?)から解放されることの自由」
このようにして語られる自由は、どこかサルトルの語る自由(実存主義)を連想させる(つまり「自由という刑」から逃れることによる自由=見せかけの自由?)(人間は常識や規律、道徳など自分を取り囲む外の世界に従うことで安心して生きられる、人間は自由を意識するとき不安になる、など)。
確かなことは分からないけれど、指導書での『鞄』の読み方はサルトルの実存主義がもとになっているような気がしている。でも、これは間違っている(適切とはいえないと思うよ)。なぜなら《2》で指摘したように、鞄を常識や社会(法律、道徳など)の象徴として読むことは出来ないから(「私」が事務所に戻ろうとする行為が常識であり、鞄は「私」を事務所から引き離そうとする力として作用している)。
[2-2]で「私」は「やむを得ず、とにかく歩ける方向に歩いてみるしかなかった」と語っている。この時点で「私」は道を選ぶこと(自分の意思で選択すること)をやめてしまった訳だけれど、私の語る「やむを得ず」という言葉のニュアンスと「自由」を結びつけることは出来ない。
(サルトルの実存主義で語られた自由を『鞄』にむりやりあてはめようとしていないか…)
参考として、安部公房が1949年におこなった講演「カフカとサルトル」から引用しよう。
結論として、サルトルが実存を書いたのだとすれば、カフカは実存で書いたという点で、カフカの方がより正しく現実を捉える方法を確立しておる故、われわれのとる途はむしろカフカの残した道ではないかと思われる。
ここでのサルトルとカフカの対比の見事さは、わたしのこころに深く残る。戦後まもない時期にこのように語る安部公房が後年(『鞄』は1972年の作品)、サルトルの実存主義を象徴でなぞるような作品を書くとは思えない……
次回はひとの心理について語ろう。
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