鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「鞄」《7》 作品の背景と作家の閃き

 安部公房『鞄』《6》からのつづき(1回目と目次はこちら)。

 作品の書かれた背景から『鞄』について考えてみよう。

『鞄』はエッセイ?

 意外に思われるかもしれないけれど、『安部公房全集』の分類では『鞄』は「小説」ではなく「エッセイ」のカテゴリーに入れられている(どうしてだろう?)。

 安部公房は、1971年から1975年にかけて『波』(新潮社の読書情報誌)に「周辺飛行」のタイトルで連載(全44回)をしていた。『鞄』はそのなかのひとつ(第10回)として発表されている。エッセイ枠(?)での発表なので『鞄』は小説ではなくエッセイの分類になるらしい。

周辺飛行 中心と周辺

 「周辺飛行―第76回新潮社文化講演会」(1973)では「周辺飛行」シリーズについて、「周辺」の意味や連載をはじめた動機について語られている。少し引用してみよう。

 最近はあまり星など見られなくなりましたが、眼の隅のほうで星がぼんやり見えているので、それをもっとはっきり見ようと思って視線をそちらへ向けると、見えなくなる。(……)人間の眼というのは、中心部では色彩に非常に敏感で、周辺部では光の明暗に敏感なように出来ているわけです。(……)だから、眼の端のほうで見えていて、そちらをはっきり見ようとすると消えてしまう。

 よく見ようとして視線をそちらに向けると逆に見えなくなってしまう(見失ってしまう)という現象(面白い!)。安部公房は人間の脳の構造(思考の構造)にも似たようなところがあると語る。

 中心部の色彩に敏感だという部分を、たとえば比喩的に言って、論理的な把握とか、認識とか――だとするとその周辺部分は非常に直感的な働きをするわけです。

 なるほど…… 「周辺飛行」の「周辺」には、眼の隅で見つけられるもの=直感的な発想くらいの意味があるらしい。安部公房は「目玉の中心だけで書いた小説」は(自分でコントロールできる範囲なので)、「自分自身を越える跳躍がない」と語る。

 「僕自身自分で気に入らなかった作品というのは目玉の中心で書いたものがあります。(……)目玉の中心だけでした仕事というのは、やはり自分にとって本当のものではなかった」(そうなんだ…)

 また、眼の隅で見つけられるもの=直感的な発想=閃きについては、次のようにも語られている。

 目玉の中心で見る努力がずっうっと蓄積されていて、それが沈澱して、(……)何かの刺激[ちょっとしたきっかけ]でパッとキャッチする[閃く]。その前に目玉の中心で見つめている努力がもしなかったら、絶対に突然閃くわけない。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 閃きは、ただ待っているだけでは駄目ということですね(目玉の中心での思考を突き詰めたその先に直感的な発想=閃きの瞬間が訪れる、創造の女神の微笑みを得るには、たゆまぬ努力が求められるようです…)。

 「周辺飛行」シリーズでは、そのような「小説にならないようなこぼれ話で、ちょっとアタリ[閃き]がくるというアタリの感覚みたいなもの」を書いてみようと思ったという(それらの「こぼれ話」を展開、再構成してゆくことで完成された作品=長編小説が生まれる、このような創作のプロセスについては『箱男』《15》『密会』《6》を参照)。

閃きからの展開

 「周辺飛行」シリーズのイメージがつかめたところで(つかめました?)、直感的な発想=閃きの視点から『鞄』を見てゆこう。

 《4》で語った『鞄』の構成を確認しておきますね。

 ではここで、次のように問いかけてみよう。『鞄』が書かれるきっかけとなった閃きはなんだろう? (皆さんはなんだと思われますか?)安部公房は、手にしていると歩いてゆける道を制約されて、行き先がおのずと決定されてしまう鞄のアイデア(不思議な鞄を手にした青年のイメージ)を最初に思いついたのではないだろうか(どうだろう…)。

 作品のアイデアを得たら、次に必要なのはそれをどのような状況(設定)に組み込むかということになる(プロの作家にとっては、ここが腕の見せ所…)。『鞄』では、新聞の求人広告を見た青年が、その半年後に事務所を訪れるという(安部公房らしい)奇妙な状況からはじめられる。「私」と青年との会話のパートのなかで、不思議な鞄の正体(?)がじりじりと明かされてゆく。

 直感的な発想=閃きとその後の展開を整理してみると、

 というふうになると思う。つまり「直感的な発想」から「具体的な追求」というながれですね。

 直感的な発想=閃きを得た時点では、作家にとっても鞄はまだ概念的なイメージ(つまりアイデアのレベル)にすぎない。「私」と青年の会話を経由することで(作家もまた鞄についての考えを深め)、鞄は具体的な存在(もの)として物語のなかに立ち現れてくる(安部公房は、自らの創作のスタイルについて「書きながら考えるタイプの作家」と語っている…)。

閃きの連鎖

 鞄が具体的なものとして描かれたところで、「私」が鞄を手にして歩くパートへとすすんでゆく。[2-1]から[2-2]への展開は、鞄の特徴からすると当然のながれだろうか。ここで普通の作家(?)なら、次の展開は「私 vs 鞄」みたいなことが一般的かなあと思う。つまり「私」が事務所に戻るために不思議な鞄と格闘する物語ですね。でも、安部公房の物語世界では[2-2]から[2-3]のように展開してゆく。

 これはおおくの方が「えっ?」となる展開だと思う(そうでしょ)。ここでの展開もまた、直感的な発想=閃きという気がする。この閃きは、作家としての才能はもちろんのこと、[1][2-1][2-2]を通過することによって(イメージの具体的な追求によって)獲得された閃き(オリジナルな発想)ではないだろうか。

 「直感的な発想」から「具体的な追求」のパターンからすると[2-2]から[2-3]への展開(鞄との対立的関係から肯定的関係への変化)もまた具体的に追求されてゆくはずだけれど、この作品はそのようになってはいない。それどころか「鞄が私を導いてくれている」から、あらたな閃きを得て「私は自由だった」と展開してゆく(「導かれること=迷わないこと」が「自由」へと展開される、安部公房すごい!)。

 つまり、この物語の最後の部分[2-3]は「具体的な追求」(登場人物の行動の詳細や心理の描写)をほとんどすることなく、閃きの連鎖として展開している。閃きは作家の直感の領域(目玉の周辺)でおこなわれるので、それをわたしたちが(目玉の中心で)論理的に把握することはとてもむつかしくなる。

 安部公房は「周辺飛行」シリーズを「小説にならないようなこぼれ話」で「アタリ[閃き]の感覚みたいなもの」と語っている。『鞄』の物語をこのような直感的な発想=閃きの視点で眺めてみると、そのことの意味がよく分かる(と思う)(『鞄』は「直感的な発想」に対して「具体的な追求」がいくらか不足した小説未満の作品なのかもしれない…)。

わたしの閃きと『鞄』

 それでは、これから『鞄』をどのように探求してゆくのがよいだろう。ここで不足しているのは「具体的な追求」なので、それをわたしたちの手で補うことは出来ないだろうか? (う~ん…)それが出来れば素敵だろうけど、そのようなことはほぼ不可能だと思う。なぜなら『鞄』の後半で展開されている閃きは、安部公房の閃きであり、「わたし」の閃きではないのだから(他者の直感=意識下の出来事を、自分の意識下の出来事とすることは出来ない…)。

 わたしは《5》で『鞄』の[2-2]以降の自由な創作(二次創作)について語った。わたしたちが安部公房のような独創的な発想を持つことはむつかしいかもしれない。でも、わたしたちにもまた、わたしたちなりの閃きを持っている(はず…)。その閃きをつかって『鞄』の物語から、新しい物語を派生させること(変奏)は出来ないだろうか? 「わたし」の閃きなら、それは「わたし」の意識下の出来事なので、手間さえ惜しまなければどこまでもこころゆくまで探求することが出来る。

 そこから何が得られるのかは、このわたしにもよく分からない(上手く出来るかどうかも分からない)。でも、わたしはこのアイデアにわくわくするものを感じている。何事もやってみなくては分からない。チャレンジしてみよう!

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