鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

わたしのことを少し… 安部公房全集のこと

 今日は、よいお天気のいち日だった。

 残念だけれど、調子はよくない。頭痛と吐き気がきつい……

 わたしの行動範囲はとてもせまい。たいていは家のなかにいる。それから健康のために、家の近くを散歩する。買い物に行くときは、電車に乗ってひと駅となりの街へゆく。

 家では創作のようなことをしている。それから家事手伝い。テレビを観たり、音楽を聴くことはほとんどない(むかしはよく音楽を聴いていたけれど…)。音はわたしのこころをいくらか混乱させる。静かな方がよい。

 パソコンの電源はいつも入っている。その画面はたいていワープロ、ときどきフォトショップ(画像編集ソフト)。ブログやサイトをあちこち見ていた時期もあったけれど、いまはごく少数のものを定期的に見ているだけ。

 部屋には本がたくさんある。大きなスライド本箱が2つにスチールの本棚がひとつ。机もふたつある。ひとつはいまこうやって文章を書いている机、もうひとつの机は美術書の置き場。本箱に入りきらない画集や写真集が積み上げてある。

 最近、読書を再開したけれど、むかしのようには本を読めない。そのことを思うと少し悲しい。

 前置きが長くなった(調子がよくないと思考がまとまらなくなるよ…)。安部公房全集のことを語ろう。

 わたしの後ろの本箱に、安部公房全集が全巻揃って入ってる。全集とかカタログレゾネは好き。ひとかたまりの本のなかに、作家のすべてが入っていると思うとわくわくしてくる。

 それさえあれば、その作家について好きなだけ研究が出来る。そう、夏休みの自由研究のような研究。個人の楽しみとしての研究。

 わたしはそういう研究が好き。そこにある言葉や物語のなかで、いくらでも遊ぶことが出来る。そこにある物語とわたしの空想とがひとつになって、不思議な世界が垣間見えてくる。

 このブログをはじめた頃、村上春樹についてあれこれ語ることはあっても、安部公房について語ることはないだろうと思ってた。でも、いまは少しちがった気持ちになっている。安部公房についても語ってみたい。

 そこでは、村上春樹を書くときの言葉とは、もうちょっとちがった言葉が必要になるかもしれない。文体というのは、思いのほかその内容、思考に作用する(ちがう?)。少しずつ、考えてゆきたい。

 思考が文体になる
 文体が思考する

 好きなことについて書くと、それとなくこころがあたたまってくる。この文章を書きはじめて、3時間あまりの時間が経過した(いまのわたしは文章を書くのにとても時間がかかる…)。頭痛はあいかわらずだけれど、吐き気の方はずいぶんとよくなった。文章を書くことは、わたしのこころによい影響を与えていると思う。

 最後に安部公房『方舟さくら丸』の最終章〈25〉からいくらか引用して、この文章を終えよう。

 永い時間がかかった。途中何度か眠ったようだ。(……)

 ひさしぶりに透明な日差しが、街を赤く染めあげている。北から魚河岸(うおがし)にむかう自転車の流れと、南から駅に向かう通勤の急ぎ足とが交錯して、すでにかなりの賑わいだ。(……)それにしても透明すぎた。日差しだけではなく、人間までが透けて見える。透けた人間の向こうは、やはり透明な街だ。ぼくもあんなふうに透明なのだろうか。顔の前に手をひろげてみた。手を透して街が見えた。ふり返って見ても、やはり街は透き通っていた。(……)

 素敵、素敵。

広告を非表示にする
鞠十月堂