鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

文学メモ 安部公房「デンドロカカリヤ」シリーズ これからの展開について 2

 今日のお天気は薄曇り。

 春らしいおだやかな気候。

 安部公房『デンドロカカリヤ』シリーズについてのメモ書き その2(興味のある方のみどうぞ…)。

なにがむつかしくしているのだろう 1

 『デンドロカカリヤ』シリーズで語りたいことは、ほぼまとまっている。あとはどのように語るかだけなのだけれど、これがむつかしい……

 むつかしい理由はいろいろ考えられますが…… いちばんの理由は、これらの文学作品シリーズを「小説の手法」を使って書きすすめているところにあるのかもしれない(皆さん気がつかれていました? もちろん分かっていましたというお方、お友だちになりましょう…)。

 「小説の手法」を使うと「論文~評論の手法」で語るより、(一般論として)読みものとして面白くて読みすすめやすいものが出来る。でも、その分あれこれと気をつかうところも増えるので手間もかかる(ほどほどのレベルの論文~評論の手法、様式で語るのがいちばん簡単だけれど、作業していて楽しくないことはやりたくないんだ)。

なにがむつかしくしているのだろう 2

 『デンドロカカリヤ』シリーズは、その内容から複数のラインを適切にスイッチングしながら語ってゆくことになる。語ることの自然な流れのなかで、それを手際よくこなすのはむつかしい。

 安部公房リルケのラインは、そのあつかいに気をつかう。リルケに対する評価(その眼差し)は、詩人安部公房と後年の作家安部公房とではおおきく異なる。ということは……

  1. 詩人安部公房リルケのライン
  2. 作家安部公房リルケのライン

 ふたつのラインで語ってゆく必要がある(ラインの混同に注意!)。それぞれのラインは互いに相反するところがおおい。だからといって、これらを対立的にあつかうと後々上手く展開できなくなる気がする(ふたつのラインは、リルケに対する「おおきな総体~真実」のそれぞれの側面なのだろう)(すくなくとも詩人安部公房〈誤〉、作家安部公房〈正〉ではないはず)。

 また、安部公房リルケのラインには、詩やエッセイで明示的に語られることのなかった(意識下に隠された)もうひとつのラインが見え隠れしている(気がする…)。後半はそちらからも展開してみたい(つまり安部公房リルケのラインは3本存在する)(そこにわたしの視点も加わるのでかなり複雑な操作になる、上手く捌けるだろうか…)。

これからの展開

いま考えているのは、以下の3つ。

  1. 樹のイメージを語る。
  2. エッセイ「牧神の笛」から展開する。
  3. リルケ『ドゥイノの悲歌』から展開する。

 [1]は《7》で語ったコモン君の世界と直接の関係を持たない。いくらか箸休め的な展開。あのような世界観にふさわしいイメージとして「樹」が選択されていることの意味を語ってみたい。でもそうすると、樹のイメージから、死への近似、時間の遮断、精神の自殺術、というような展開になって、これだとリルケから離れてしまう。「死への近似」から「樹」へと展開する方がよいだろうか。

 [2]は植物に変形したコモン君の世界からストレートに安部公房リルケの関係を結びつける。この展開は、とてもちからづよい。ちからづよいのは魅力ではありますが、その後の展開のことを考えると、う~ん、どうなのだろう。このパターンだと[2]で語った内容を理由づける方向ですすんでゆく。その範囲はおのずと限定的になるので、展開に厚みをもたせることはむつかしい(でも、それを回避する上手い方法があるような気もしている)(そもそも結果→考察のパターンは好きじゃない…)。

 (わたしは〈それ〉を論証したいわけではなくて、そこにある〈世界〉をよりよく見えるかたちで提示したい)

 [3]は《7》を投稿して以降に考えはじめた展開。『デンドロカカリヤ』とリルケを直接結びつけているのは、本文に引用されている『ドゥイノの悲歌』(第九の悲歌)なのだから、そこから展開してゆくのがよいのではないか。『ドゥイノの悲歌』からの展開は自由度もおおきい。この場合、それぞれの作品の細部を比較、検討しつつ全体像を示唆してゆく作業になると思う。

 (リルケ『ドゥイノの悲歌』を語るのなら、そのタイミングで詩「夜のうた」についても語っておきたい)

 [3]を上手くこなすのがいちばん美しいとは思うけれど、さて、どうするのがよいだろう……

 

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