芥川龍之介 「歯車」 怖いお話
今日のお天気は雨のち晴れ。
こちらの調子は、あまりよくないかな…… やや残念。
数日前、何年かぶりに芥川龍之介の「歯車」を読み返した。これは、わたしのなかで怖い小説のひとつになっている。
わたしが『歯車』をはじめて手にしたのは14、5歳の頃だったと思う。少し読んだところでなんだか怖くなって、途中で読むのをやめてしまった。このまま小説を読みつづけていると、なにかよくないこと、怖ろしいことが起こりそうな気がした。
そのときの怖さを説明することは、むつかしい(認識している世界の「変貌」みたいなことです…)。その頃のわたしは、精神的にいくらか不安定だった。
この小説は、いま読んでみてもやはり怖い。でもそこに、あの頃のような怖さはもうない。わたしはそのことにいくらかほっとしている。怖さのむこうに、哀しみが見えてくる。
〈六 飛行機〉で「僕」は妻の実家に行く。
(……)僕は誰にもわからない疑問を解かうとあせりながら、兎に角外見だけは冷やかに妻の母や弟と世間話をした。
「静かですね、ここへ来ると」
「それはまだ東京よりもね」
「ここでもうるさいことはあるのですか?」
「だつてここも世の中ですもの」
妻の母はかう言つて笑つてゐた。実際この避暑地も亦「世の中」であるのに違ひなかつた。
静かなのがいちばんだと思う。でも、世の中ってどこに行っても結局はそうじゃないから……
このあといくらか会話が続いて、妻の母は「僕」に「もっと強くならなければ駄目ですよ」と言う(これは芥川龍之介が自分自身にむけて語った言葉のようにも聞こえる)。人はつよく生きていったほうがいいよね。
物語の終わり近くからの引用。
歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい切子硝子を透かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。……
立ち止まりたくても立ち止まることさえ出来ない切迫した心理…… 芥川龍之介には、自然がゆたかなところでゆっくりと静養してほしかった。晩年の精神の危機を、上手くやりすごしてほしかった、そう思う。
この小説の結末はいくらか衝撃的だけれど、わたしも母に同じようなことを言われたことがある。
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