鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

「子供の遊び」「美と哲学」についての覚え書き

 今日のお天気は晴れ。

 台風が通りすぎたためだろうか、暑くはあってもどこかしら爽やかさの感じられるいち日だった。

 9/2と9/7に投稿した詩「子供の遊び」(こちら)と「美と哲学」(こちら)についての覚え書き。

 このふたつの詩は、わたしが22歳のときにはじめて書いた小説のイメージを、いくらか引き継いでつくられたものだったりする。どちらも「死にむかうこころ」が主題になっている。

 「子供の遊び」では、ふたりの女の子が登場する。はじめふたりは、いっしょに死んでしまうことを考える。でもそれでは、その死について語るものが誰もいなくなってしまう。

 誰にも語られない死は、ふたりにとって本意ではなかった。ともに死んでしまうことは許されない。

 ふたりは窓から身を乗りだす遊びに興じる。それは、どちらかが窓から落ちるまでつづく…… 「きみがわたしのことを語るのさ きっとそうなのさ」と彼女は語る。

 生き残ったものが、その死について語る役を引き受ける。窓からの転落は、事故のようにも自殺のようにも見える…… 「わたし」は彼女の死をどのように語ればよいのか……

 「美と哲学」は、古典的な心中を題材にした詩(そのつもり…)(美と哲学についての詩ではありません…)。「わたし」は近々病気で死んでしまう運命にある。「そのひと」は「わたし」のことを、こころから愛してくれている。

 「そのひと」は、愛するものが病気で死んでしまう悲しみの大きさに怯えている。その運命をつよく恨んでいる。ふたりは岬の先から海に身を投げることを選択する。

 「そのひと」は、それが深い悲しみからの逃避だとしても、ふたりの愛の姿と死を結びつけることで、この運命を与えた世界にささやかな仕返しが出来ると考えている。

 「わたし」にとっての世界はそのようではなかった。「わたし」は自身の死をこころ静かに受け入れている。「わたし」の眺める世界はおだやかな悲しみに包まれている。

 悲しいときに涙を流すことは自然なことではあるけれど、「そのひと」のためにここで泣くわけにはいかない、と「わたし」は思っている。世界にむけて涙を見せることは、この世界に対して敗北を意味し、それは「そのひと」の望むところではないのだから……

 「わたし」はもうあの頃のように「そのひと」を愛してはいない。だから「そのひと」と死を共にすることが「そのひと」に対する最後のやさしさだと「わたし」は考えている。

 ふたりは「涙が頬を伝うよりはやく」岬から身を投げる。

 ふたつの詩におけるこれらの空想は、たわいない子供の遊びだった。いまのわたしはそのように考えている。

 

鞠十月堂