三島由紀夫 豊饒の海「奔馬」《1》
今日は、薄曇りのいち日だった。
わたしは風邪の具合があまりよくなくて、ちょっとつらい。
そろそろ三島由紀夫『奔馬』の感想を書いておかないと、と思ったので、とりあえず書きはじめてみよう。
三島由紀夫と主人公の微妙な関係
『春の雪』の感想(こちら)では、「主人公の好みでいうと、やはり『奔馬』の飯沼勲よりは、『春の雪』の松枝清顕かな」と書いている。あのときは『奔馬』を読んでいる最中だったけれど、この物語を読み終えてみると、そうでもない。松枝清顕とはいっけん対照的な飯沼勲という若者も、わたしのなかで静かな輝きを放っていた。
この素敵さについて語ることは、いささか難しい。自分の想いに対してまっすぐに生きたところが素敵、と簡単に言ってしまっては、この二人に対してなんだか申し訳ない気持ちになってくる。この二人は、より多くの語られるべき言葉を求めている。わたしにはそのように思われる。三島由紀夫がこの二人注ぎ込んだ多くの言葉のように……
それにしても、三島由紀夫はちょっと語りすぎって気がするよ。それが彼のスタイルと言ってしまえばそれまでだけれど、ここで語られているのは登場人物の言葉ではなくて、あなたの言葉でしょ、と言いたくなることがたびたびあった。そんなに説明しなくていいよ、わたしはこの物語をただ楽しみたいの! とつい思ってしまう。
〈33〉まで読みすすめたときのこと、留置場にいる飯沼勲についての内面の描写がはじまった。「裏切り」についての、あれやこれやを長々と語ったあとでつけ加えられたひと言は「もちろん勲はそこまでは考えなかった」だって…… 思わず笑ってしまった。
描かれる物語のなかで、三島由紀夫自身が遊んでる(あるいは苦しんでいる)、そんな光景がわたしのなかで見え隠れする。作家のありかたとして、これはわたしの好みではないけれど、それを越えて、彼にはある種のいとおしさを覚えてしまう。三島由紀夫はわたしにとって不思議な作家。
この物語には「純粋」という言葉が繰り返し出てくる。飯沼勲も〈21〉で「純粋を守るにはどうしたらいいのだ」と、自身に問いかけ、〈37〉では「槙子を偽証罪に陥れぬためには、自分のもっとも大切な「純粋性」を犠牲にしなくてはならぬのだ!」と苦悩する。
「純粋」という言葉はたしかに美しい。でも、その言葉を使えば使うほど「純粋」からは遠ざかってゆくようにも思える。「純粋」というのは、物事の結果に対して語られる言葉であって、「純粋」であることのために思考し行動することは、すでにいくらかの不純を含んでいる。
少し視点を変えてみよう。ここで語られる「純粋」にもっとも憧れているのは、三島由紀夫自身なのかもしれない、そんなふうにも思う。彼は飯沼勲の「純粋」に自らの憧れを投影して描く。飯沼勲がその「純粋」の只中に生きることを願い、同時にそれを嫉妬するかのようにあれこれと不要とも思える心理描写をしつつ彼の足を引っぱったりする(三島由紀夫は自分がいちばん目立ちたいひと、ちがう?)。
三島由紀夫というひとはなんだか面白い。
- 次回 豊饒の海「奔馬」《2》
- 前回 豊饒の海「春の雪」《2》
ご案内