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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

三島由紀夫 豊饒の海「奔馬」《2》

三島由紀夫

 今日のお天気は、曇りときどき雨。

 気温はあたたか。

 三島由紀夫 豊饒の海『奔馬』《1》からのつづき。

 三島由紀夫の小説について、あれこれ書くというのは、なんだか疲れてしまう(正直にいうとあまり楽しくない…)。でも、前回《2》につづくと書いたので、がんばって書いていこう。

物語のなかの三島由紀夫

 『奔馬』〈37〉は第二回公判の場面。この小説のいちばん盛り上がるところ(だと思う)。主人公、飯沼勲の弁護を引き受けた本多繁邦の視点での語り。

 彼は被告[飯沼勲]と証人[鬼頭槙子]の間に、この戦いを提起することを望んだのである。すなわち、勲の考える純粋透明な志の密室を、思いつめた女の感情の夕映えの紅で染めなすこと。(……)この種の戦いこそ、勲が今までの二十年の半生に、想像だにせず、夢見ることさえなく、しかも或る「生の必要」から必ず知らねばならないところの戦いだった。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 こんな考え方をする弁護士はいないよ、とは思うけれど、ここで語られていることは、なるほど三島由紀夫らしい。男性の〈純粋〉に対するもっとも手強い戦いの相手が、女性の〈愛〉だったとは!

 わたしとしては、鬼頭槙子の「思いつめた女の感情」についても、あれこれ描写してほしかったけれど、三島由紀夫の女性についての語りは、いつもあっさり控えめ、ちょっと物足りない……

 〈38〉から、飯沼勲の台詞(場面の詳細は、物語の核心に関係してくるので省略)。

 「僕は幻のために生き、幻をめがけて行動し、幻によって罰せられたわけですね。……どうか幻でないものがほしいと思います」
 (……)
 「大人になるより、……そうだ、女に生まれ変わったらいいかもしれません。女なら、幻など追わんで生きられるでしょう、母さん」

 これは、次のお話『暁の寺』への伏線なんだろうけど、それ以上の何かを、わたしのこころは感じてしまった…… ここに書かれていることは、三島由紀夫その人の言葉として、わたしのこころに響いた気がする。

 そう、幻など追わずに生きてゆくことが出来れば、それがいちばん。わたしも幻でないものが欲しいと思う。最後の「母さん」のひと言はちょっと切ないな……

 〈40〉で、この物語も終わり。わたしの思いは、やや複雑。ここで飯沼勲は実際に「行動」する。でもね、その必要ある? と思ってしまった。

 計画は頓挫してしまったのだから、それで終わりじゃないの? 彼の手を、現実の他の誰かの血で汚すことに、それほどの意味があるとは思えないのだけれど……

 たしかに〈16〉で

 (……)いずれにしても根源的な罪から養分を取らねばならぬ。そのときはじめて、罪と死、切腹と栄光が、松風のさやぐ断崖、のぼる朝日のなかで結合するのだった。

 とは、言っているけれど、「罪」としてあれでは不足ということなのかな? 一審の判決は、まあそうかもしれないけれど…… 正直にいうと、「罪」と「栄光」が結びつく感覚が、いまのわたしにはよく分からない。空想は空想のまま、その人のこころの中で幕を閉じるのが〈美〉ではないかしら、ちがう?

 この物語の最終行は、いかにも三島由紀夫らしい。小説の終え方として、とても格好いい。でも、わたしの思いとして、あそこで終わるわけにはいかない。そこはまだ、終わりじゃない。そんな気がしている。

 痺れるような冷たさのなかで、輝きは闇の裡へと沈んでいった。静かな眠りがやって来た。

 わたしのなかでは、これがこの物語の終わり(死とはそういうもの…)。

 三島由紀夫奔馬』についての感想は、これで終わりです。

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