村上春樹 「海辺のカフカ」《4》 源氏物語と生き霊
村上春樹『海辺のカフカ』《3》からのつづき(1回目はこちら)。
前回は『海辺のカフカ』に河合隼雄との関連がみられることを語った。今回はそのつづきで、生き霊のお話をしてみたいと思う。
源氏物語と生き霊
『海辺のカフカ』には「生き霊」について、あれこれと語られる場面がある。それは約7年前におこなわれた、ふたりの対談にすでに出てきていたりする。
『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』から「第二夜 無意識を掘る“からだ”と“こころ”」を引用しよう。
村上 あの源氏物語の中にある超自然性というのは現実の一部として存在したものなんでしょうかね。
河合 どういう超自然性ですか?
村上 つまり怨霊とか……
河合 あんなのはまったく現実だとぼくは思います。
村上 物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?
河合 ええ、もう全部あったと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。
なるほど…… 河合隼雄の語る「あんなのはまったく現実」という表現に、なにか凄みのようなものを感じる。
(河合隼雄はどこかで「死霊」や「生き霊」について、あるいは人にとっての「現実」とはなにかについて語っていたと思うのだけれど、それがどこだったか、いまはちょっと思いだせない。やや残念…)
大島さんの語る生き霊
『海辺のカフカ』第23章より、大島さんの「生き霊」のお話を引用しよう(すべて引用すると長くなるのでポイントのみを抜粋)。
それは〈生き霊〉と呼ばれるものだ。諸外国のことは知らないけれど、日本ではしばしばそういうものが文学作品に登場する。たとえば『源氏物語』の世界は、生き霊で満ちている。
怪奇なる世界というのは、つまりはわれわれ自身の心の闇のことだ。19世紀にフロイトやユングが出てきて、僕らの深層意識に分析の光をあてる以前には、そのふたつの闇の相関性は人々にとっていちいち考えるまでもない自明の事実であり、メタファーですらなかった。
紫式部の生きていた時代にあっては、生き霊というのは怪奇現象であると同時に、すぐそこにあるごく自然な心の状態だった。そのふたつの種類の闇をべつべつに分けて考えることは、当時の人には不可能だっただろうね。
ふたたび、ふたりの対談のつづき。
村上 でも現在のわれわれは、そういうのを一つの装置として書かざるをえないのですね。
河合 だから、いまはなかなか大変なんですよ。
それが近代というもの、と簡単に言ってしまってはいけないのかな?
大島さんのお話のつづき。
しかし、僕らの今いる世界はそうではなくなってしまった。外の世界の闇はすっかり消えてしまったけれど、心の闇はほとんどそのまま残っている。僕らが自我や意識と名づけているものは、氷山と同じように、その大部分を闇の領域に沈めている。そのような乖離が、ある場合には僕らの中に深い矛盾と混乱を生み出すことになる。
さすがは村上春樹(と思う)。対談での河合隼雄の「まったく現実」というひとことが、大島さんの語る「生き霊」のお話として、分かりやすく丁寧に展開されている。
それにしても、ここで語られていることはなかなか奥深くて、いろいろと考えさせられる。わたしたちの暮らすこの社会は、客観的(物理的、科学的)な事実だけを見て、人にとっての現実を語ろうとしすぎてはいないだろうか、そんな気がする…… (どうだろう?)
それから、ここに氷山が出てくるけれど、そういえばゴダールも同じようなことを語っていたことを思い出した。せっかくなので、そちらも引用しておこう。
『ゴダール全評論・全発言〈1〉』から「人生を出発点とする芸術 アラン・ベルガラによるジャン=リュック・ゴダールへの新しいインタヴュー」より。
あるとてつもなく大きい不安が存在している。そしてだれもがこの不安をかかえている。フロイトやあるすぐれた精神分析医が見てとっていた、氷山のこの目に見えない部分について語るべきなんだ。でも、これはなされていない。
なにやら内容が似ていますが…… (似てはいるれど、このことについて深入りすることはやめておこう…)
日本の物語と「もの」
この対談には補足(フットノート)がついている。そちらから河合隼雄の「もの」と「現実」についての考察を引用しよう。
日本の物語はまさしく「もの」について語っている。あるいは「もの」が語っているのだとさえ言える。このときの「もの」は西洋の物質とはまったく異なり、事物から人間のたましいまでも含む広範囲にわたる存在である。
それはある意味における「現実」であり、むかしの日本人は「現実」をそのまま語るのが物語と思ったかもしれない。
ここで語られていることも、また奥深い(西洋の物質は「もの」の一側面にすぎず、人間のたましいまでも含む存在が「もの」であるとする日本の物語を素敵に思う…)。
ふたりの対談がおこなわれて『海辺のカフカ』が書かれるまで、約7年の歳月が流れている。作家にとってなにかを物語るには、それくらいの時間が必要なのかもしれない。
7年も経てば、それらの話について、いったんは忘れてしまう(そんなに思い出すこともなくなると思う)。でも、本当に忘れてしまったわけではなくて、その時が来れば自然とそれはこころの表面に浮かび上がってきて物語の一部となる。そこには物語ること(小説を書くこと)の大切な本質が隠されているような気する。
では、これくらいで…… チャオ!