三島由紀夫 豊饒の海「春の雪」《2》
三島由紀 豊饒の海『春の雪』《1》からの続き。
『豊饒の海』は、いま第2巻『奔馬』を読んでいるところ。主人公の好みでいうと、やはり『奔馬』の飯沼勲よりは、『春の雪』の松枝清顕かな。でもね、彼はどこか気持ち悪いよ……
そう、エヴァンゲリオン劇場版『Air/まごころを、君に』の最後のところで、アスカがシンジにむかって、ぽつりと「気持ち悪い」と言ったみたいに、松枝清顕って、なんだか気持ち悪い。
読み終えて、しばらくのあいだは、そう思っていた。でも、あれからいくらか時間が経って、読後のなまなましさが漂白されるように消えてゆくと、少し違った感想を抱くようになった。
松枝清顕は、そんなには気持ち悪くないよ。物語そのものは、よい物語だと思う。気持ち悪いとわたしに思わせていたのは、そう、三島由紀夫の、あのもっともらしい心理描写や、説明ぽい地の文だった!
若い頃は誰だっていくらかは、矛盾していたり、屈折していたりするもの。でも、それは三島由紀夫が描くように、華麗に言語化できるようなものではないって気がしてる。わたしは、少しだけ心理学を勉強したことがあるからそう思う。
若い頃は、自分でもよく分からないままに感情の波に呑まれたり、何かに突き動かされるように行動してしまったり、そんなもの。それは、エヴァが暴走するみたいなものだと思う。ちがうかな?
この物語には松枝清顕の「感情」と「行動」があれば、もう十分。そんな気がしてきた。そのように思っていると、あらたな『春の雪』の物語が、わたしのなかで春の小川のように流れはじめた。それは、一人称の「僕」の物語……
最後のところは、わたしのなかで
目を開けると、本多の顔がそこにあった。彼の眼差しが、心配そうに僕を見つめていた。あれほど聡子のことを思っていたのに、僕はもう彼女の顔を思い出すことが出来なかった。胸が刺すように苦しかった。
「いま、夢を見ていたんだ」と、僕は本多に言った。「君とは、また会えるよ。(以下、物語の核心に迫るので省略)」
というふうに、言い換えられた。
『春の雪』は素敵な物語。男の子の美しい友情のお話。
今回はちょっと自由に書きすぎたかな(三島ファンの皆さま、ごめんなさい…)。三島由紀夫『春の雪』についての感想は、これで終わりです。
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