文学メモ 安部公房「デンドロカカリヤ」シリーズ これからの展開について
今日のお天気は曇り。
気温は低め、肌寒い。
『デンドロカカリヤ』シリーズ、これからの展開についてのメモ書き(興味のある方のみどうぞ…)。
内面への想像力
《7》を投稿したのが2/24、体調のこともあって書きすすめる意欲がすっかり後退してしまった(よたよたとした歩み…)。
このシリーズは、詩人安部公房(青年安部公房)から作家安部公房への変遷を盛り込んで展開してゆくことを考えていた(そのつもりで《序1》~《序3》を書いた)。ということは、必然的に戦時下から戦後まもない頃までの安部公房の内面に立ち入ってゆくことになる。
それほど深く立ち入るつもりはないけれど…… 内面は、そこで語られている言葉を引用して「これが内面ですよ」と簡単に取り出すことが出来ない。著作を共感的に読むことのなかから「このうよなことではないだろうか…」と想像しつつ語ってゆく作業になる。
でも、これがむつかしい……
(卵の中身は、殻を割れば取り出してみることが出来る。でも殻を割られた卵の中身は、殻を割られた卵の中身にすぎないわけで… 殻のなかの黄身と白身のありのままの姿はこころのなかで想像するしかない…)
あの頃の安部公房は自身の思考(あるいは存在)の突端で言葉を紡いでいるようなところがある。そこで語られている言葉の造形は(わたしからすれば)個性的すぎて、共感的に読むことには困難が伴う。
親密なメランコリー 詩「夜のうた」
安部公房の言葉が、その意味も不確かなまま、わたしのこころに沈んでゆく(そこで語られていることのいくらかを、わたしのこころで引き受けなくてはならない…)。やがてそれらの言葉が、わたしの言葉のように感じられたとき、その言葉と関係したいくつかのイメージが見えてくる。
詩人安部公房が「夜」を語る。「太陽は緑の中でしぼみ 夜の季節がきて」と語る。「あゝ 天が降る」と語る。「夜がくるとぼくは歌ひたかつた」と語る。「ぼくもささやかな行為となつて降りたかつた」と語る。
わたしはこれまでさまざまな詩を読んできたけれど、「夜のうた」には他のどの詩にも見つけることの出来ない親密なメランコリーがある(わたしにはそのように感じられる…)。こころが輪郭を失い、不可視の地平にむかって落下してゆこうとする…… (リルケは「わたしたちはみんな落ちる」「落下はすべてにある」と語った)
でも…… 「ああ しかし」と詩人安部公房は語る。
顔よ おまへは
その刹那からぼくを裏返った外界に
放擲しようとする
それにしても…… このような「自」と「他」の境界を解消してゆくかのような作業(読書)にどれほどの客観性があるだろう? それは、わたしの「無益なうた」にすぎないのではないか? (その判断は皆さんにゆだねよう…)
慎重に作業をすすめてゆこう(わたしのこころがそうだと思えるところから、はじめよう)。