ドストエフスキー 「悪霊」《4》 語り得ない言葉
ドストエフスキー『悪霊』《3》からのつづき(1回目と目次はこちら、このシリーズは全7回です)。
『悪霊』は、第2部 第9章「ステパン氏差押さえ」の前半部分(と巻末の「スタヴローギンの告白 チホンのもとにて」)まで読みすすめた。
第2部 第6~8章 あれこれ
第2部 第6章のタイトルは「奔走するピョートル」。そのタイトルのとおり、ここでのピョートル(ヴェルホーヴェンスキー)は、いろいろとがんばってます。でも、懲役人のフェージカが言ったように「他人を勝手にこうと決めてしまって、その決めこんだ相手と暮らしている」ようなところがあるので、あまり上手くいってないような……
その上手くいかないところのおかしみ(面白さ)が、彼の父親であるステパン氏となにかしら共通しているようで微笑ましくもある(これは、おかしな感想?)。ピョートルは悪いやつにはちがいないけれど、人のこころを一瞬でつかみ操るようなカリスマ性は備わっていない(だから彼はスタヴローギンを利用しようとしたともいえる…)。
わたしにとってのピョートルは、この物語をぐいぐい引っ張ってゆく機関車の印象。彼があれこれ走り回ることによってこの物語は進行してゆく。そして父親のステパン氏と同じく、ちょっと道化ぽい。
第7章は「同志たちのもとで」。ここではヴィルギンスキーのもとに、あやしげな人たちがみな集まる。みんなが集まれば、いろいろと会話が始まるわけだけれど、これがなんともいえず面白い。会話のすすめ方が、入ってゆきやすい話題(神やその信仰についてのあれやこれや)からはじまって、じりじりと核心の話題へとすすんでゆくあたり、さすがに上手いなあと思った。
第8章は「イワン皇子」。ヴィルギンスキーのもとでの「会議」は、やはりというか途中で散会に…… それでもピョートルとスタヴローギンの会話はつづく。ここでピョートルは、その悪だくみの計画をスタヴローギンに打ち明ける。でもスタヴローギンは「気違い沙汰だ!」と言ってとりあわず…… (スタヴローギンをこの悪だくみに組み入れたいのなら、相手の弱いところを攻めつつ、もっと巧妙に話をすすめないとダメでしょう、と思うのだけれど…)
スタヴローギンの告白 語り得ない言葉
訳注によると、第8章のあとドストエフスキーは「スタヴローギンの告白」の章を予定していたという(このお話は、ドストエフスキーが生きているうちに発表されることはなかった)。なので、第9章を読む前にそちらを読んでみた。
で、その感想はというと…… 読み終わってなんか疲れたよ、というのが正直なところ(この章を読み終えた夜に、イエス・キリストに関係した夢を見た…)。
いままで読みすめてきた『悪霊』が、暗い沼の縁(その周囲)をあやしげな足取りで歩く人たちのお話(誰がその沼に落ちるのだろうとはらはらしらながら見ている感じ…)だとすると、この「スタヴローギンの告白」には、その暗い沼にぎりぎりまで歩み寄って、その底を覗き込むような怖さがある。
わたしはそれまでスタヴローギンを、カガーノフとの決闘のエピソードなどから、自身の生死にも無関心であるかのような、どこか虚無的な人物のように思っていた。でも、彼の告白文を読んでみると、どうやらそうではないらしい。
スタヴローギンは不名誉で、屈辱的で、卑劣で、滑稽な立場に立たされるたび「怒りと同時に信じられないほどの快感をかきたてられてきた」という。でもそれは「卑劣さを愛する」のではなくて「その下劣さを苦しいほど意識する陶酔感が私にはたまらなかった」との理由による。これは、あの決闘の場面でもそうだったらしい。
そうだったんだ……
スタヴローギンは「その感情に支配されることはあったが、われをわすれるということは一度もなかった」という。「私は、その気になれば、常に自分の主人であった」とも語る。そのように言いつつも、その具体例は示されていない…… (ということは、結局その感情に支配されているのと同じでは? とも思ってしまう…)スタヴローギンの心理はどうにも分かりにくい。
この章の冒頭で「私」(アントン・ラヴレンチエヴィチ)は、この告白文について「この文章は病気のなせるわざ、この人物にとりついた悪霊のなせるわざである」と語っている。ひと言でまとめてしまえばそういうことなのかもしれない。
ドストエフスキーはすぐれた心理学者のように、登場人物たちのこころを詳細に語る。でも、人のこころは宇宙のように広大なので、ドストエフスキーといえどもそのすべてを明晰に語りきることは出来ない。つまり、その語り得ないところに、悪霊を語る余地が生まれてくるともいえる。悪霊がそのように語られ得るのなら、それと裏表の関係にある神もまた、そこに立ち現れてくるだろう……
と、「スタヴローギンの告白」を読みながら、そのようなことを考えてみたのだけれど…… この時代の神を語ることの困難さを思えば、これがドストエフスキーの作戦(?)だったのかなという気もしてくる(よくは分からないけれど…)。
訳者の江川卓によると、ドストエフスキーはこの章を『悪霊』の中心的な章と考えていたとのと。『悪霊』をすべて読み終えた後、この章については、あらためて考えてみたいと思う。
いまの気分で、スタヴローギンの告白文についての「私」の見解を少し引用して、この記事を終えよう。
この文章は病気のなせるわざ、この人物にとりついた悪霊のなせるわざである。はげしい痛みに苦しんでいる人間が、ほんの一瞬でも苦痛を軽減できる姿勢を見いだそうとして、ベッドの中でもがきまわる姿にそれは似ている。(……)当然のことではあるが、その姿勢の美しさとか合理性とかは問題にもならない。この文章の基本思想は――罰を受けたいという恐ろしいばかりの、いつわらぬ心の欲求であり、十字架を負い、万人の眼前で罪を受けたいという欲求なのである。
ドストエフスキーの文章って、いつもどこか熱っぽい。
今後の展開が楽しみ……