ドストエフスキー 「悪霊」《6》 第3部 第1~3章
ドストエフスキー『悪霊』《5》からのつづき(1回目と目次はこちら、このシリーズは全7回です)。
『悪霊』は、第3部 第3章「破れたるロマンス」まで読みすすめた。
第3部 第1~3章 ステパン氏
『悪霊』第3部は、ユリヤ夫人が主催する祭り(女性家庭教師扶助を目的とした催し)の場面からはじまる。「私」の語りで「この祝祭の一日がなんらか超大級の椿事なしに無事にすもうなどとは、だれひとり信ずるものもなかった」とあるように、催しはやがて大混乱に…… (川向こうでは放火とみられる火災が…)
わたしのお気に入りステパン氏もこの祭りで講演をおこなっている。彼の話しぶりは、感情たっぷりのコミカルなものではあるけれど、そこで語られる内容はなかなか奥深い(と思う)。
ステパン氏は壇上で非合法の刷り物、檄文のことを話題にする。彼によると、このあやしげな檄文の秘密は、その「愚かしさ」にあるらしい……
これが、故意に仕組まれたもの、計算された愚かしさであれば、それは天才的でさえあるとステパン氏は語る。実際のそれは(計算されたものなどではなく)素朴で単純な愚かしさであるがゆえに、人々はその秘密を探ろうし、行間を読もうとする。つまり、「ほんのちょっぴりでも気のきいた書き方」をされていないからこそ、それは効果的なのだという。
なるほど……
おお、かつて愚かしさがこれほどまで輝かしい褒賞にあずかったことは例がありません、(……)ヨダンナガラ、愚かしさは最高の天才とひとしく、人類の運命にとって有用なものだからであります。
『悪霊』の登場人物達はある意味、ここでステパン氏が語ったような「愚かしさ」をそれぞれが持っている(わたしにはそのように思われる… だからこそいろいろと事件が起きる…)。それら多様な愚かしさが互いに絡まり、もつれ合いながら、物語は進行してゆく。
意図的、あるいは偶発的に寄り集まった愚かしさのあいだ(行間?)から立ち現れてくる何か…… その何かをドストエフスキーは描きたかったのではないだろうか。ふと、そのようなことを考えてみた。
第3部 第1~3章 ピョートル&スタヴローギン
第3部でも、あいかわらずピョートルは悪いやつで暗躍(?)しているみたいですが…… 読んでいてちょっと笑ってしまったところがある。ピョートルがスタヴローギンに言ったひとことを引用しておこう。
ぼくはどうせ道化ですがね、ぼくの大事な半身であるきみには道化になってもらいたくない!
ははは…… 《4》でわたしはピョートルのことを「父親のステパン氏と同じく、ちょっと道化ぽい」と書いたけれど、スタヴローギンに「きみがそれほどの道化でなかったら」と指摘されて、あっさりと道化であることを認めてしまった…… (道化は自分が道化であることを認めちゃダメなのでは? ちがう?)
「ここできみには道化になってもらいたくない!」は、深読みしたくなる言葉だろうか。というのも「スタヴローギンの告白」の章がお蔵入りになったこともあって、あれやこれやの混乱のなかでスタヴローギンも道化役に落ちてしまうんじゃないかとつい心配してしまう。ドストエフスキーもスタヴローギンの描写には苦慮しているのではと思ってみたりするけれど、どうだろう…… (そうでもない?)
第3部 第1~3章 マリヤ&リーザ
第3部 第2章「祭りの結末」でマリヤは死んでしまう。う~ん、残念…… スタヴローギンとのかみ合っていない会話をもう少し楽しみたかったのだけれど……
マリヤさん、やすらかにお眠り下さい。
第3部 第3章のタイトルは「破れたるロマンス」。その詳細、結末は省略するとして、スタヴローギンとの会話からリーザ(リザヴェータ)の台詞を引用しておこう。
いま思わずこぼしてしまった涙をお笑いにならないで。わたしは《自分を憐れんで》泣くのが大好きなんです。
なんといいますか、ロマンスが19世紀してますねぇ~ でもこのような会話はちょっと好みだったりする。機会があれば(そんな機会はないだろうけど…)わたしもこのようなことを言ってみたいものだと思う(言いながら笑ってしまいそうではありますが…)。