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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「デンドロカカリヤ」《3》 概要 初期著作群

安部公房

 安部公房『デンドロカカリヤ』《2》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 『デンドロカカリヤ』との関連で、わたしが語る予定にしている初期著作群(主なもの)をひととおりまとめておこう(暫定です…)。

これから語る予定にしている初期著作群一覧

1943
01 [詩]或星の降る夜
02 [エッセイ]僕は今こうやって

1944
03 [エッセイ]詩と詩人(意識と無意識)

1945 終戦

1946
04 [小説]天使
05 [詩集]没我の地平

1947
06 [小説]白い蛾
07 [詩集]無名詩集

1948
08 [小説]名もなき夜のために
09 [詩]夜のうた/悲歌/手のひらに/一切が僕等に

1949
10 [エッセイ]牧神の笛
11 [詩]荒野の端に
12 [詩]宣言/世紀の歌
13 [小説]デンドロカカリヤ

1950
14 [小説]壁―S・カルマ氏の犯罪

1951
15 [小説]詩人の生涯
16 [小説]闖入者

初期著作群についての簡単なご説明

 それぞれの著作について、わたしのイメージを語っておこう。

 (『安部公房全集』をお持ちでない方には、よく分からない内容になっていると思いますが、予備知識として軽く読んで頂けたらと思います)

1943(19歳) 東京帝国大学(現・東京大学)医学部に入学。

01 [詩]或星の降る夜――リルケ「秋」(『形象詩集』に収録)をもとにしてつくられた詩。リルケの詩では「超越者」(神)が〈落下〉を支えるけれど、安部公房はそれを「人間的な愛」に置き換えている(ここに安部公房の原点があると思う)。

02 [エッセイ]僕は今こうやって――「僕はマルテこそ一つの方向だと思っている」と語られている。「世界」と「わたし」の関係を『マルテの手記』を水先案内人として現象学~存在論的な視点で考察している。

1944(20歳) 結核の診断書を偽造して友人と満州の自宅に帰る。

03 [エッセイ]詩と詩人(意識と無意識)――第二章「世界内在」に注目してみたい。これは哲学の言葉で詩(リルケ)を論じたものだろうか? わたしにはここで語られていることのすべてが一篇の詩のように思われる。

1945(21歳) 満州で終戦をむかえる。
1946(22歳) 満州から引き揚げ(安部君、おかえり…)。

04 [小説]天使――2012年に見つかった短編小説(詳細はこちら、『安部公房全集』には未収録)。加藤弘一氏の解説によると「約一ヶ月間におよんだ引揚船内の生活の中」で執筆がはじめられたとのこと。

 天使の「私」は詩人(それは狂人でもある)であり、胸に飾った真紅の花は詩の精神(詩的な魂の昂揚)を象徴したものだろう。「此の死の花を持つ者こそ、本当の永遠を歌い得る者なのだ」青年安部公房は「本当の永遠」を歌うことが出来たのだろうか?

05 [詩集]没我の地平――わたしの印象だと、詩集としては『無名詩集』より、こちらのほうが出来がよいように思う(ここには詩を愛する青年の素直な歌うこころが感じられる)。そのなかから「人間」について語ってみたい。

1947(23歳) 山田真知子と結婚。

06 [小説]白い蛾――虫の世界に自分の居場所を見つけられなかった白い蛾。港に停泊していた船の船室には白バラが生けてあった。白い蛾は、白バラに自分の居場所を見つける。船が港を出ると白バラは枯れ、白い蛾も死んでしまう。船長は白い蛾を標本として保存する。

 白バラにリルケと亡くなった友人のイメージが透けて見える。この物語の結末は「標本」にされるという点で『デンドロカカリヤ』と同じではあるけれど、読後の印象はおおきく異なる。

07 [詩集]無名詩集――詩集の最後におさめられたエッセイ「詩の運命」について語ってみたい。「真に実存を歌い、日常性を安易の枠から取りはずし、つきつめた心で詩の本質を闘い抜いた詩人の一人として想い出されるのは、やはりライナ・マリヤ・リルケだろう」

1948(24歳) 東京大学医学部を卒業。

08 [小説]名もなき夜のために――「僕」はコモン君と共通する奇妙な発作(仮死の発作とでも呼べばよいだろうか)に襲われる(リアリズムの作品なので顔が裏返ったり、植物にはなりません)。『デンドロカカリヤ』では語られることのなかったコモン君の内面(内的世界)がここにあると思う。

 これは『マルテの手記』を経由して、その先へとすすんでゆくことを試みた作品ではないだろうか。でも、未完のまま放置された(マルテと同じ言葉、方法でそこから先を目指すことは出来ないと思うよ…)。

09 [詩]夜のうた――「内」に「外部」を含むイメージが歌われ、「裏返った顔」が描かれる。
 [詩]悲歌――「古き顔」が裏返る。『デンドロカカリヤ』に引用されたリルケ『ドゥイノの悲歌』のイメージがある(《2》[6]を参照)。
 [詩]手のひらに――「或星の降る夜」、リルケ「第八の悲歌」との関連で語ってみたい。
 [詩]一切が僕等に――ここで歌われる「僕等」とは、安部公房と亡くなった友人のことだと思う。

1949(25歳)

10 [エッセイ]牧神の笛――安部公房にとってのリルケの世界の意味が語られる。「悲しむ〈もの〉はいたが悲しみはなかった。愛する〈もの〉はいたが愛はなかった。したがってその〈もの〉は日常に支えられた人間ではなかった」

 『マルテの手記』が引用され「怖ろしい顔の裏面」のイメージが提示される。「人間的なものはすべて裏がえった顔であり、それに合わせて自己を裏がえそうとする試みだけが詩ではないだろうか」

 安部公房リルケの詩的な眼差し、その世界観から離れてゆく(これは普遍的な詩的イメージとの決別ではないとわたしは考えています)。

11 [詩]荒野の端に――それまでのリルケふうの詩とは語りのトーン(対象への眼差し)が異なっていることに注目したい。「牧神の笛」で語られたことが、そのまま詩(物語)として展開されている(ああ、すばらしい!)。

 ここには、新旧ふたりの安部公房が登場する。旧―青年安部公房の土饅頭(墓)のうえで新―作家安部公房への「眼差しと魂」の引き継ぎがおこなわれた(作家安部公房の誕生を祝福しよう)。

 安部公房シュルレアリスムの手法を使って『荒野の端に』の主題から小説『デンドロカカリヤ』を導き、展開する(ああ、すばらしい!)。

12 [詩]宣言/世紀の歌
「宣言」は「君たちはマテリアリストの何を恐れるのか!」ではじまる物質主義を宣言した詩(「死んだ有機物から生きている無機物へ」のフレーズが想起される)。「世紀の歌」は《1》でご紹介したとおり。

13 [小説]デンドロカカリヤ――顔のイメージ(役割)を語ることからはじめてみたい。コモン君の顔が裏返り、それにあわせて「内」と「外」が入れ違いになる。それを「ぼく」が語る。樹になったコモン君の時間が遮断された……

 語り手「ぼく」とその対象であるコモン君の関係に注目しよう。

1950(26歳)

14 [小説]壁―S・カルマ氏の犯罪――コモン君とカルマ氏は、互いに似た雰囲気を持っている。今回は『デンドロカカリヤ』との関係で語ってみたい。

 「ぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです」安部公房の創出した〈生〉(生きている無機物)がここに見つけられる(安部公房が表現の場として選んだのは詩や哲学ではなく、小説=散文の世界だった)。

1951(27歳)

15 [小説]詩人の生涯――タイトルが「生涯」となっていることに注目したい。『壁―S・カルマ氏の犯罪』で創作のたしかな手応えをつかんだ安部公房は、あの頃のようなリルケふうの詩に再び戻ることはなかった。冒頭部分は労働=撚られた詩の言葉=詩作のイメージだと思う。

 後年、安部公房リルケを愛していた青年時代を(プロの作家の視点から)さんざんに語っているけれど、リルケから学ぶなかで鍛えた詩的なイメージの跳躍力、展開力、構成力などは、作家として仕事をしてゆくうえでの大きな財産になったのではないだろうか。

16 [小説]闖入者――『友達』(戯曲)のもとになった作品。ここまで来れば、わたしたちがよく知っている、日常のなかに奇妙な状況をつくりだすことを得意とした安部公房の世界だと思う。

地図と順路

 ここに[1]~[16]までの番号を割りふった、わたしのささやかな地図が完成した。わたしは、この地図(初期著作群)をどのようにすすんでゆけばよいだろう(う~ん…)。でも、それほど心配はしていない。

 「すべての区画に、そっくり同じ番号がふられた、君だけの地図。
だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ」

 むむむ……

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